長野電鉄OSカーについて

※この記事の後半は、筆者こと走ルンですによる事実や資料を元にした考察で構成されています。予めご了承ください。

突然ですが、皆さんは長野電鉄の「OSカー」という電車についてご存知でしょうか?

「ああ、あの田舎の電車にしては珍しい本格的な通勤電車のことかー」とか、「ワンマン化できなくて廃車になったやつでしょー?」という認識の方が大勢いらっしゃることと思いますが、どうして生まれてきたか、またどうして廃車になったか、そこまで突き詰めて存じていらっしゃる方はそう多くはないと思います。

ここ最近、長野電鉄上田電鉄の貴重な写真を多数収録した本が発行された際に、10系OSカーについて間違った解説がなされているとの話が話題になりました。さらにTwitterを見ていると、0系OSカーの廃車理由として、当時の情勢的に間違っているであろう記述が多数散見されるのに気が付きました。そこでこの記事では、特に0系OSカーを製造から廃車までの経緯を掘り下げて書いてみようと思います。筆者こと走ルンですは無学故に文才0なので読みづらいと思いますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。

 

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須坂駅を発車するOSカーOS2編成:絵葉書「長野電鉄車輛集」より

 

1:誕生の経緯および基本仕様

1-1 0系

そもそもなぜ、長野電鉄(以下、長電)のようなクソ田舎地方都市を走る電鉄が、大手私鉄顔負けの本格的な通勤型電車を欲したのでしょうか。それを紐解くには長野市中心部の地形をご覧いただくと納得できるでしょう。

 

 

地図はGoogle mapより、長野駅を中心とした長野駅中心部の様子を示しています。

長野市の中心部は西を裾花川を挟んだ旭山、北を善光寺の裏に広がる大峰山や地附山といった山に囲まれているため、住宅地などの開発は山裾を切り崩したわずかな範囲でしか行えず、大規模な造成が非常に困難です。加えて北西部を流れる裾花川沿いは「裾花峡」として有名な断崖絶壁の峡谷で、ここもわずかな平地を切り開いた集落が点在するのみで、大規模な造成は不可能です。そこで必然的に長野電鉄長野線(以下、長野線)や信越本線が走る東側や南側が開発されることになるのですが、このことが長野線の混雑を招くことになるのです。

当時の長電を走っていた電車は17m車体を持つ2ドアのロングシート車がほとんどで、これでは3連を組んでも朝ラッシュに殺到する大勢の旅客を捌き切れませんでした。唯一、信濃鐡道*1由来の買収国電を鋼体化した1100系は18m車体を持ちながら3連を組むロングシートの電車でしたが、在来車と同じ2ドアでは全く太刀打ちできませんでした。苦肉の策として特急車の2000系を走らせたのですが、朝ラッシュの混雑にロマンスカーを充当すれば、火に油を注ぐようなことなのは誰の目に見ても明らかです。以上の経緯から混雑緩和には本格的な通勤型電車が必要であるとの結論が見出され、OSカーが開発されることになりました。

先述のような状況から17mや18mの短い車体で朝ラッシュの混雑を捌き切れないのは明らかなので、車体は思い切って20mの4ドアとしました。定員は1両当たり135名で、1編成で17m車3連分に匹敵する容量になりました。前面は貫通型を採用したことで4連を組む事ができるため、その際は17m車6連分の旅客を一度に輸送する事ができます。これは長野~朝陽間が複線であるものの、それ以外は単線という限られた中で1列車当たりの輸送力を上げることに繋がりました*2

また朝ラッシュの輸送を円滑に行うには列車の速度向上も必要であると考えられたため、2000系で実績のある三菱電機製WNドライブが採用されました。加えて通勤型電車故に経済性が求められたことや、今後の保守費用の低減のため、1965年に近鉄南大阪線吉野線の「吉野特急」用に登場した16000系の実績を踏まえて、135kW主電動機を4個装備した1M1Tの編成とされました。当時は狭軌鉄道における大出力の主電動機を伴うWNドライブの技術が未成熟であったため、動力台車の車輪径が910㎜と大きなものになりました*3。このことから起動加速度は低速で1.9km/h/s、高速で2.3km/h/sと使い分けることが出来たとのことですが、実際は在来車のと関係から低速モードでの運転だったそうです。

制動装置はコストカットと軽量化のため、東武8000系同様にHSC形空制のみ採用したところ、勾配区間で制輪子の摩耗が激しくなってしまい、後に引退の一因となりました。

車内は均衡形と呼ばれる近鉄や相鉄で採用されていた窓配置*4のため、乗務員室の後ろまで座席が設置されたほか、乗降扉のすぐ横まで座席を寄せたことで、出来るだけ多くの旅客が着座できるよう工夫されました。吊革も座席前のみならず扉付近の線路方向にも設置されており、現在の通勤型電車では一般的なものを採用しています。ただし枕木方向の吊革は設置すると冬季のスキー客輸送の支障となることが見込まれたため、取り付けが見送られています。当時はまだスキー輸送の需要が旺盛であったことが窺えるエピソードですね。

以上のような機能的な事項よりも、0系OSカーを強く印象付けるものとして、「猛々しい」と形容されるFRPで出来た前頭部が挙げられます。これは斬新なデザインとリンゴ色の明るい塗装を以って快適に利用してもらおうという意図のもとで、製作にあたった日本車輛の要望で採用したものです。当時の長電は長野~善光寺下間が地上を走っていたことで現在よりも踏切の数が多く、万が一踏切事故で破損したときでも復旧を容易にするためという意図もあったのですが、兎にも角にも日本で初めて前面全体にFRPを採用した例として、とても画期的な構造でした。前面窓上部にまとめられた灯具類は、降雪時における視界の確保や、踏切事故発生時における破損の防止という観点から採用されました。また1100系登場時に各停と特急の誤乗が多々発生したことから、列車種別表示と行先表示も一つにまとめて前面貫通路上に設置されました。長電とは異なる理由であったとしても、このような灯具と表示器類の配置はFRP製の前面と併せて、現在さまざまな電車*5に採用されているものであり、長電は55年以上前から既に採用していたということは特筆すべきことでしょう。さらに運転台内部の仕切は、乗務員が万が一事故が起きて閉じ込められたときに備えて運転席側から助手席側へと脱出できる仕組みになっており、ここにも現代の一般的な通勤形電車に先立つ先進的な装備を見ることができます*6

この他にも当時の長電には、本形式を用いて信州中野駅における分割併合運転を行う計画があり、そのために柴田式密着連結器を採用したり、日本の通勤型電車では初めて電動式の行先表示器を側面に採用したりと、ここでも画期的な面が見られます*7。また側面窓は計画時では1段下降式が採用されることも考えられていたものの、コストカットの関係で2段上昇式が採用されました*8

形式の「0系」は、元々木造車で使用していたもの*9で、1100系への更新に伴い空いていたところを、本形式の導入によって新たに「20mの通勤形電車」に付番するよう形式称号規定を改めています。後にこの規定は2005年に8500系の導入に伴って改変され、20mの通勤形電車であっても18m車同様に4桁で区分されるようになりました。

1-2 10系

0系OSカーの登場から5年以上たった1970年代前半、長野市を通る幹線道路である国道19号「昭和通り」の交通量は日に日に増大し、長野線緑町駅跡地と交差する踏切では渋滞が問題となりました。そのため長野線長野~善光寺下*10の連続立体交差化が決定し、当初は高架線で計画が進められました。しかし高架線では景観や騒音の問題があるということから、計画は地下化に改められました。その影響で在来の半鋼製車は地下線へ入線することが出来なくなり、河東線屋代~須坂間用に初代1000形を数両残す*11以外は廃車することとしました。

以上の経緯から在来車の代替が必要となった長電は、新車の導入を検討したところ予算面で折り合いが付かないことが判明したため、中古車の導入を検討することにしました。当初は東急3450形が考えられていたものの、長電側が比較的長期間使える車両を希望したため、ながの東急百貨店の仲介で東急初代5000系の導入になりました。しかし東急初代5000系は長電が必要とした両数を揃えることができなかったため、その分を補充するための新車がどうしても必要になりました。そこで計画されたのが10系OSカーなのです。当初は2500系C編成を7本、2600系T編成を4本中古導入し、不足する2連2本分をOSカーで補う計画だったのが、最終的には2500系C編成を10本、2600系T編成を3本中古導入し、不足分の2連1本をOSカーで補うこととしました。以上のことから10系OSカーはあくまで不足分の補充用であるため、最初から量産して全車両を置き換えるために計画されたものではありません。したがってWikipediaをはじめ、それを丸写ししたような蘊蓄書籍および迷列車系動画にある「10系OSカーで在来車を全て置き換える計画」という記述は誤りになりますので、この記事をご覧の方はご用心願います。

10系OSカーは0系から15年以上の時間を空けて造られるため、その間に進歩した技術や改善すべき接客設備等を盛り込んで設計されることになりました。そのため0系との目立つ差異は前面構造や側面などに見ることができます。

まず前面は、灯具配置をそのままに非貫通の折妻となりました。これは貫通構造だと冬季に隙間風が問題となった*12からだそうで、朝ラッシュ時の4連運用も2500系へ代替されたことから、非貫通でも十分と判断されたことも考えられます。折妻の前面は着雪防止を狙っての採用で、川造形の600系や国鉄から乗り入れた165/169系の経験から採用されたものです。方向幕も種別と行先が一つのコマの中に併記されるものになったことで、1段のコンパクトな形状へ変更されました。前面下部にはタイフォンとアンチクライマーが配され、0系とは異なるいかつい雰囲気を醸し出しています。これは同じ'80年代に日本車輛で製造された富山地鉄14760系や、遠州鉄道1000系、さらには新京成8800形などと同様の意匠*13であり、当時の日本車輛製地方私鉄向け電車における一つのトレンドであったと言えましょう。ちなみに当初の計画案では、西武2000系に類似した貫通形前面を採用することが検討されていたとのことで、実現した際の様子を見てみたかったものですね。

側面はやはり冬季の防寒対策から3ドアへと変更されると同時に、クロスシートを意識した窓配置や、スキーを持ったままでも楽に乗降できる高さの扉になりました。これも当初の計画図面において、4ドアのデッキ・補助席付セミクロスシートの車体が考案されており、これを元に検討していったことから最終的に観光輸送も意識した仕様になったものと考えます。

足回りは狭軌における高出力主電動機を伴うWNドライブの技術が成熟したことから、主電動機出力は150kWに増強され、0系よりも強くなりました。これにより、車輪径も動力台車と付随台車で同じものになるなど、細部も変更されています。また発電ブレーキも省略せずに搭載されたため、勾配区間の運転が頼もしいものになりました。台車も0系とは異なるものが使用されたり、補助電源にSIVが使用されたりと、時代に合わせた改良が加えられました。

連結器はOSカーによる4連運用が2500系に代替されていたことから、当初より密着自動連結器を採用していますが、それでもOSカー同士の4連を組めるようにジャンパ線受けなども装備しています。

 

2:その後の変遷

 

まず1966年に0系のOS1編成とOS2編成の4両が製造され、翌1967年に鉄道友の会よりローレル賞を受賞しました。以後は朝ラッシュ時の4連運用などを通して、当初の目的通り通勤・通学輸送に威力を発揮しました。計画では5編成を揃えた上で効率的な運用を行ったり、旧型車を本形式に準じた車体へ更新を行なったりすることが考えられていましたが、増備はこの2本で打ち切られてしまいました。

先述の通り転機が訪れたのは連続立体交差化計画が浮上した1970年代後半から1980年にかけてで、まずは地下化後も長野線で継続して使用する特急車・2000系共々A基準に適合させるための改造が施されました。さらにラッシュ時の4連運用が2500系に代替されたことから、前面の連結器周りに手が加えられています。これは連結器を密着連結器から密着自動連結器へ交換するとともにジャンパ線や貫通ホロ、サン板を撤去、4連を組んでいたときからほとんど連結させていなかったクハ51とモハ2のスカートを切り欠きのないものへと交換して、組成位置の固定化などといったことが行われました。これによって、以後は2連単独で運用されることがほぼほぼ多くなりました。

その後、1980年に2500/2600系が不足する分の補充要員として10系のOS11編成が製造され、以後は3本体制で全線にわたって、ときには優等種別の代走に入りながらも各駅停車として活躍していました。

1990年代に入ると0系は製造から25年近くが経過することから、大体の鉄道車両において車内外の大規模な修繕工事を検討するような時期に入りました。一方この頃の東京では、営団地下鉄2号日比谷線で用いられていた3000系の大量廃車が進んでおり、さらに都合のいいことに、この電車は18m車体の三菱製WNドライブ車という在来車と概ね共通の仕様を持っており、必要最小限の改造を施せば即戦力として就役させることが可能でした。さらに言えばこの電車はセミステンレス車体ゆえに、電蝕に伴う骨組の腐食の問題が付き纏うものの、ある程度はメンテナンスフリーになるメリットがありました。そこで長野電鉄は3000系を大量に導入することで、来たる長野五輪に向けた列車の増発と、既存の不都合な在来車を置き換えという2つの問題を一気に解決することにしました。

以上の経緯からまず淘汰の対象となったのは、河東線で使用されていた吊り掛け駆動車の1500系と、軽量車体の老朽化や直角カルダン駆動に手を焼いていた2500/2600系でした。そしてさらに発電制動を省略したことで制輪子の消耗が著しく、車内外共に更新工事を検討するような車齢になってしまった0系も、その対象に選ばれてしまいました。これによりOS1編成とOS2編成は1997年を以て廃車となり、31年に渡る活躍を終えました。廃車後しばらくは2本とも須坂駅構内に留置されていたものの、一応の保存を検討されていたOS1編成を除いて解体されてしまいました。そのOS1編成も2002年に入り、突如として処分されることが決定してしまい、他に留置されていた1500系モハ1501号や2600系T2編成とともに無償譲渡する旨が告知されていたものの、引き取り手が現れなかったことから解体されてしまい、これにて0系は全てが処分されてしまいました。

0系の廃車後も車齢が若く運用に難がなかった10系は継続して活躍をしていたものの、年を追うごとに1編成だけの存在が運用や整備などの面でネックとなったらしく、2000年から始まった長野線や河東線須坂~信州中野間の都市型ワンマン化工事の対象から外されてしまいました。また3500/3600系に施工されていた冷房化工事も施工されることはなく、末期は非冷房のツ-マン車として朝ラッシュに孤軍奮闘したり、木島線こと河東線信州中野~木島間廃止記念イベントに活躍したりしていました。

しかし木島線の廃止に伴い3500系に余剰が出たことから、これを用いた車種統一が可能となり、10系も廃車対象の烙印を押されることになりました。2003年の3月にさよなら運転を行った後に廃車となり、こちらもしばらくは須坂駅で留置されていました。2010年前後に出された中期経営計画の一つには「オリジナル車両の復活」とあり、本形式を復活させて観光列車に用いることが検討されていました。伝え聞いたことをまとめると、これは8500系の機器を用いて界磁チョッパ制御化改造をするとともに、沿線の小布施町で様々な施設のデザインを担当していた水戸岡鋭治氏のデザインを用いて観光列車にすることで復活させることを目論んでいたとのことですが、資金面から折り合いが付かなかったらしく、この計画は頓挫してしまいました。

復活の頓挫後も須坂駅に留置されていましたが、新たに東京地下鉄からやってきた3000系へ場所を開けたり車輪転削線を新設したりする都合からか、2017年に突如として解体前のお別れ会が告知され、同イベントの終了後にED5000形ED5001号とともに解体されてしまいました。

これによりOSカーは1編成も残ることなく、現在はこの世から消え去ってしまいました。

 

3:OSカーにまつわるあれこれ

3-1:OSカーのそっくりさん

 

さて皆さんは0系OSカーにそっくりな電車と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。大体の方は見た目からダルマこと京急800形や、側面の窓配置が同じ相鉄旧6000系と答えることでしょう。しかしスペックをよくよく見ていくと、とある電車と似ていることに行き当たります。

それがこちらです。

 

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テテテ-テ-テテテ-↓テ-↑テ-↓テ-↑(東武博物館のテーマ)

そうです、あの東武が生んだ通勤電車の傑作・8000系なのです(画像は七光台所属の中期修繕車)

こんなことを言うと、お前なにデタラメ抜かしてるんだよwwwと思われる方が多々いらっしゃるかと思いますが、ここで帰らずに最後までご覧いただけると幸いです。

まず東武8000系について簡単に説明しますと、1963年から20年間に亘り、全線において使用ができる経済的な車両として712両もの数が製造された通勤型電車で、東武線内における汎用性を追求したことから軽量化を考慮した車体や経済性を重視した機器構成などが特徴的なスペックになっています。

このことを頭の片隅に入れながらもう一度0系OSカーのスペックを見てみると、次の共通点や類似点が見つかります。

・経済性重視のMT比1:1

・軽量化やコストカットのために発電ブレーキを省略

・構造は異なれど経済性を重視した台車

・130kW級主電動機*14

・戸袋なしの20m4ドア車体

・分割併合を考慮した貫通形前面

・ダブルホーンの採用*15

・車両の重量

・踏切事故対策を考慮した前面デザイン

・冬季におけるドアカット機能

・ホーム長の不足する駅におけるドアカット機能*16

・2連を組成する編成は上り方に制御電動車が組成

・広幅の編成間貫通路

どうでしょう?東武8000系と長電0系OSカーは姿形が異なれど、ここまでたくさんの共通点が出てくるのです。ではなぜここまでたくさんの共通点があるのでしょうか?

考えられる理由として、設計時の思想が似ていたからこそ、結果として似通ったものが出来たということが挙げられます。

東武8000系もOSカーも、当時の逼迫した輸送状況を限られた範囲の中で最大限に解消しようとしたものであり、それを実現するために設計を煮詰めていった結果として、これだけたくさんの共通点が生じていったのでしょう。長電は東武8000系を意識してOSカーの設計を行なったわけではないので、あくまで偶然の一致ですが、東武と長電における路線の環境が似ていたからこその共通点とも言えるでしょう。これを踏まえて本文をお読みの皆様は、これからは長電0系OSカーのそっくりさんは京急800形ではなく、東武8000系ということで覚えていただけると幸いです。

以上、全体的な見た目は違っても中身は似ているというお話でした。

 

3-2:OSカー引退の真相

 

インターネットやTwitter、果てはつべのインチキ迷列車動画などでOSカーに関する記述を見ると、よく「冷房化ができなくて引退した」だの「ワンマン化ができなくて引退した」だのといったものを目にします。これらについて走ルンですは、誰が考えたかわからないデタラメであると断言させていただきます。

うそつけ!お前こそデタラメ抜かすな!Wikiや本にはそう書いてあったぞ!という方がいるかと思いますが、引き続きここで帰らずに最後までお付き合いください。

ではなぜか。

それは引退当時の長電の情勢を見れば答えがでてきます。

まず0系OSカーですが、引退の話が出始めた1993年の地点で車齢は27年、引退した1997年の地点では31年です。鉄道車両は25年以上経つと車体や電装品など各部の劣化が著しくなるため、だいたいの事業者ではそれなりに大規模な修繕工事を施工するものと思います。そのため長電においても特急車・2000系は1989年と1991年に2本ずつ冷房化を兼ねた車内外の更新修繕を行うと同時に、営団3000系の足回りへ更新する工事も進められました*17。このことを踏まえて現役末期に撮影された写真を見てみると、車体がかなり煤けて見るからにヨレヨレです。つまりは更新修繕をやる気がなかったと見て取れるかと思います。もし継続して使用するつもりがあれば、2000系のように綺麗に修繕した上で2000年代くらいまでは現役だったことでしょう。それに加えて前述のとおり、当時は東京の営団地下鉄で2号日比谷線用電車・3000系の大量廃車が進行しており、わざわざ更新修繕を施工して継続使用するよりも、これで置き換えた上で車両の統一をした方が合理的であると考えたのでしょう。

そしてこの3000系改め3500/3600系の存在もデマを裏付ける証明になります。この車両が転入した1990年代といえば、日本各地の地方私鉄が大手私鉄の冷房付新性能電車をもらってきては相次いで就役させていたときでもあります。信州こと長野県内においても、1993年に上田電鉄東急7200系*18、1999年にアルピコ交通京王3000系*19と、それぞれ冷房車を就役させていたのに対し、長電は1993年から1998年に渡ってずっと非冷房の営団地下鉄3000系を就役させていました。そして2000年代に入るまで冷房化改造をしないまま運転していました。当時の長電は上田や松本より北部に所在することで、比較的冷涼な気候である北信地方で運用する分には冷房は不要と考えていたらしく、それでもサービス上必要な特急車・2000系は冷房化したものの、各停用の車両には不要であるといった考えでいたとのことです。つまりは「冷房化する気がなかった」というのが、当時の実情だったのです。もしこの当時から冷房化する気があったのであれば、3500/3600系も竣工と同時に冷房化されていたり*20、この当時置き換え予定のなかった10系が冷房化(この詳細は後述)されていたりしてもおかしくはないと思います。

以上を踏まえると、0系OSカーは冷房化を考えていなかった時代に修繕する手間を惜しんで廃車されたと見て間違いはないでしょう。ざっくりまとめると、引退した理由は「合理化のために引退した」という結論に落ち着くのかと思います。なお実際はこれらの状況から考えられる理由のほか、電制を備えてなかったことで制輪子の摩耗が激しかったことが最大の理由であると、鉄道ピクトリアルにおける記事に示されています。

続いて10系OSカーですが、こちらはよく車体の見た目から「ワンマン化できなくて廃車」といったデマが流布しているように思います。ここで営団地下鉄3000系が転入した当時の長電を見てみると、最初にN5編成を竣工させたのち、河東線末端*21のワンマン化に合わせて必要な6編成を急ピッチで整備していました。つまりこの地点で河東線末端用のワンマン運転に必要な編成は予備を含めて全てが出揃っているのです。裏を返せば、これ以上は閑散線区用のワンマン車は必要ないことになるため、10系OSカーが閑散線区用ワンマン車として出る幕はないということになり、閑散線区のワンマン車として運転しない以上、扉配置云々の問題は関係がなくなることになります。そのためこれ以降は、余程の事態*22を除いて3500系N編成や3600系同様にツーマン線区でのみ運転されていました。その後2000年に入り、ツーマン線区だった長野線や河東線須坂~信州中野間、山ノ内線においても都市型ワンマン化が行われることとなり、現在に至るまで特急車・2000系をはじめ3500/3600系8500系、2100系、3000系と、車体の構造から本当にワンマン化が困難な「ゆけむり」こと2代目1000系を除いて全車が施工されています。つまり10系OSカーも継続して使用するつもりがあったのであれば、2000年代に入ったタイミングで都市型ワンマン化工事を施工されていてもおかしくはないのです。むしろされていない方がおかしいです。よく10系OSカーはワンマン運転に不適当なドア配置という記述が見られますが、じゃあ都市型ワンマン化された上、実際に朝ラッシュ時におけるワンマンの各停運用に臨時ではなく定期で入っていた特急車・2000系はどうなるんだよ、と走ルンですは思います。どう考えても2000系の方がワンマン運転に不適ですが、実際にワンマン化されて混雑する時間帯にワンマンの各停に充当されていたのです。混雑する時間に運用するのであれば、3ドア・ロングシートの10系OSカーが適任ですし、都市型ワンマン化改造を受けるべきであることは間違いないことでしょう。

ところが、この都市型ワンマン化が開始された2000年という年は、長電にとって大きな問題が噴出した年でもあります。それは木島線こと河東線信州中野~木島間の存廃問題です。もしこの線区が廃止されれば3500系に余剰が生じる*23ため、10系OSカーがいなくとも都市型ワンマン化される線区の運用をカバーできてしまいます。加えて車両を2000系と3500/3600系の2形式に統一できるため、保守の合理化も達成することができます。よってそう遠くないうちに車両面の合理化ができる目処が立った以上、処分予定の車両に対して余計な投資をするのは合理的ではありません。このようなことから2001年から始まる各停用車両の冷房化も対象外とされてしまいました。

以上のようなことから10系OSカーは2002年の河東線信州中野~木島間の廃止後以降もツーマン車として活躍を続けたのちに引退してしまいました。もしこの廃止さえなければ、都市型ワンマン化されて長野線で継続して活躍していたことが考えられるのです。また冷房に関しても2001年から非冷房であることを前提に製造されている3500/3600系への取り付けが行われていること、特急車・2000系も同様に非冷房であることを前提に製造されたものが冷房化されていることから、もし残すつもりがあったのであれば施工されていても不思議ではありません。むしろ2000系や3500/3600系への施行が可能であった以上、都市型ワンマン化同様にやろうと思えばできた事だと思います。

よって10系OSカーは、その見た目から「ワンマン化が不可能」や「冷房化が不可能」といったデマが流布しがちですが、実際のところは「合理化のためにワンマン化も冷房化もする必要がないし、するだけのメリットがなかった」というのが本音でしょう。

つまり0系も10系も引退した最大の理由は、改めてざっくりまとめると合理化のため、というところに行き着くものと考えます。

 

以上、当時の長電を取り巻く状況から、OSカーの引退に関するデマを紐解いてみましたが、いかがでしょうか。現に流通している書籍やWikiの記事、そしてそれを丸写ししたような書籍や動画などでは、深掘りせずに車体の形状や諸元表などの表面的なことだけで語られているのが非常に残念に思います。当時の状況を見ていくと見えてくるものが出てくるのに、間違ったことだけが脈々と受け継がれていることは何とも言えない気持ちになります。これをお読みの皆様は拙い文章ではありますが、これらOSカーを改めて見つめ直していただけたらと思います。

 

参考文献

長野電鉄60年のあゆみ(社史)

長野電鉄の75年 地域の夢を乗せて走り続ける激動の鉄道史(準社史)

鉄道ピクトリアル各号

鉄道ジャーナル各号

鉄道ファン各号

*1:現在のJR大糸線電化区間

*2:後に入線する8500系もこのような考えの基で導入されたらしい

*3:付随台車の車輪径は一般的な860㎜である

*4:相鉄旧6000系と同一である

*5:代表例としてJR東日本E233系E531系以降の通勤・近郊形などが挙げられる

*6:勘違いする読者が出てくると思われるので念のため記すが、現代の通勤形電車のように乗務員室→客室へと脱出できるものではなく、あくまで乗務員室内限定の脱出口であることに注意されたい

*7:よく分割併合に関して特殊な装備があったものと誤解されるらしいが、文献等で確認できるのは以上の装備である

*8:本郷駅改築記念乗車券のイラストでは、このことを反映させたのか1段下降窓を持つ0系OSカーが描かれている

*9:昭和30年代の形式称号では、木造車を2桁以内の数字で区分するものとしていた

*10:実際は善光寺下と本郷の中間点に地下への取付部がある

*11:当初は1001,1002,1012,1052の4両が計画されていたが、最終的に車齢が比較的浅い1003,1004,1501,1502,1552の5両が残存した

*12:現行の3500系8500系も隙間風対策として前面貫通扉の内側に透明な粘着テープを貼っているくらいである

*13:ただし遠鉄1000系以降に引き継がれたのは前面下部のアンチクライマーのみである

*14:前述の通りOSカーはそれより若干高出力の135kW

*15:ただし東武の場合は上り方先頭車のみ

*16:東武8000系森林公園検修区に所属する編成のみ

*17:ただし足回りの交換はA編成のみの施工で終了している

*18:当時は上田交通。なお7200系の正式な形式は017200系である

*19:当時は松本電気鉄道

*20:福島交通北陸鉄道へ譲渡された東急7000系は諸改造と同時に冷房化も施工されている

*21:屋代線こと屋代~須坂間および木島線こと信州中野~木島間

*22:主に河東線末端線区廃止記念イベント

*23:ヒント:3500系O編成のうちO1とO2はワンマン/ツーマン兼用である