走ルンですノート

でんしゃ/バスをメインに適当に

連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 第1章編

前回から始めた連載企画「善光寺白馬電鉄小史を読む」ですが、今回からほんへを読み進めていきたいと思います。

第1章は建設までの経緯ということで、長野市から白馬村の間を結ぶ野望を抱いた小さな鉄道が如何にして建設に至ったかが詳細に記されています。

 

まずは第1項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

1-1. 長北鉄道の発起と計画の趣旨(当時の交通事情)

長野市は山国信州の中心として栄えると共に、善光寺を始め志賀・妙高・戸隠などの観光地への玄関口として知られている。

一方、白馬方面は、明治時代に北アルプス地域を調査した鉱山局のイギリス人鉱山技師ゴーランド(William_Gowland)が"日本アルプス"と命名、イギリス人宣教師ウェストン(Walter_Weston)が4回にわたって踏査し、「日本アルプスの登山と探検」(1861)をロンドンで出版して以来、世界的にも有名になった。

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明治39年 松沢貞逸が建設した白馬山頂小屋(毎日新聞より)

 

大正5年には東久邇宮稔彦殿下、7年には久邇宮邦彦殿下が白馬岳へ登頂した。こうした皇族や有名人の旅行はその地を観光地として軽井沢と共に有名にする結果になった。

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皇族のお泊まりも多かった白馬館 大正12~13年頃

(毎日新聞より)

 

しかし当時の交通事情では大糸線の一部になっている信濃鉄道が松本~信濃大町間を営業しているものの白馬方面へは大町から白馬館の乗合自動車(大町~小谷)が運転されているのみであった。

大正末期から昭和初期に長野から北城村(現 白馬村)への鉄道の構想が打ち出され、延長36.2キロの電気鉄道(軌間1067mm)での敷設が計画されるに至った。

この件に対しては事業を発揮して実現させると云う意図から議会に於いても熱心な意見が盛んに唱えられ活発な動きが見られた。

当時の長野市長、丸山弁三郎は自ら代表発起人として委員長を務め、市の有力者の他、沿線の各村の村長など計84名の発起人を得て鉄道敷設の計画と準備が進められ、免許の申請を行った。

認可申請のこの時点では始点及び終点の両端地名の頭文字を取って長北鉄道と称された。

 

ざっくりまとめると、白馬は明治期よりイギリス人によって世界的に紹介されて以来、有名な観光地としてその地位を確立したものの当時はまともな交通手段がなく、その不便を解消するために北信地方の観光地の玄関口である長野とを結ぶ鉄道が計画され、それが長北鉄道として認可申請を受けるに至ったという流れになります。

ちなみに大糸線*1が白馬まで延伸したのは昭和7年のことで、それまでの間は乗合自動車以外の公共交通は皆無だったことになるみたいです。

善光寺白馬電鉄は廃止後に自治体を巻き込んでの復活の動きがあったことは有名な話ですが、開業前の計画段階でも沿線の自治体の首長が発起人となっていたことはあまり知られていないかと思います…。それだけ沿線がこの鉄道に対して大きな期待を抱いていた、ということなのでしょうかね。

後に車両の項目でも述べられていますが、使用していたガソリンカーの形式に社名の「ゼ」を用いていたことは、現在の私鉄や三セクの軽快気動車のそれに先んずるものであり、これらは現代で言うところの「マイレール意識」を感じさせるエピソードのひとつなのではないかと思います。

 

続いて第2項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

1-2. 免許かく得と計画の具体化

この計画に基づいて昭和2年11月16日、地方鉄道法に寄る長野~白馬間の地方鉄道敷設免許をかく得した。

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設立意見書の中の地方鉄道敷設免許

 

計画の概要は、裾花川上流の木材資源は莫大なものであり、木材需要への輸送手段並びに、裾花峡や白馬地区の観光開発を行う為の解決策には長野から北城村(白馬村)までの鉄道敷設が最上策であり、沿線人口は少ないが鉄道の利用価値は大であり将来性がある。もっと身近な問題としては善光寺温泉、芋井村(長野市)、柵村(戸隠村)、鬼無里村への旅客、物資輸送が極めて便利になり、沿線の人々への多大な恩恵を与えるものであると云う内容であり、昭和3年7月8日には創立発起人会が開会され、長野市桜枝町に創立事務所を設けた。

長野から白馬までの鉄道敷設計画は企業の理想実現への願望で極めて困難な面が多く、又計画は途中で変質し消えるかも知れないが消滅し変貌するまではその会社の打ち出した計画は、内部では「そうなりたい」と云う企業の目標として生き、外部では会社に対して「そうしてほしい」と云う欲求表現につながるものである。

又、権力や偉業に対する憧れも、その企業の価値観を育むのに大きな力をもっているが、単に偉業をなし遂げた政治家や財界人に対する個人的なパーソナリティの憧れのみならず、その背景にある時代の道徳、価値観を考えておかなければならない。

社会に対して何が立派な事業であるかは、その時代の倫理によって違って来るからである。

それだけに、鉄道事業のもたらす権力や偉業に憧れた願望の価値づけを長期的、歴史的、社会的観点から十分検討したうえで市場因子としてみていかなければならない。

丸山弁三郎市長はは進歩的な考えの持主ではあったが、経営の現実としては、激しく燃える郷土愛だけからではなく、ある程度の採算性と、利権上のうま味が必要である。

計画を進めるに当っての意欲的な政治活動、資金の裏付け工作の点では保守的であったようだ。

この事は、地方中小私鉄の企業的インセンティブの乏しさを物語る事であり、沿線に白馬を始め渓谷や温泉と云った観光資源を有していたにもかかわらず、これらを大規模温泉街でや登山・スキーのレクリエーション場としてコミュニケーションを展開するだけの企業力がなかったのは明白であるし、県内では長野電鉄志賀高原の開発があった位である

大手の場合、戦前では東武根津嘉一郎が日光鬼怒川を国際的観光地にした企業戦略の展開が有名である。

結局、丸山弁三郎の打ち出した、白馬地区の観光開発は戦後になって東急の進出まで陽の目を見なかった。

 

こちらもざっくりまとめると、昭和2年に晴れて免許を獲得し、昭和3年に創立発起人会が立ち上げられ、長野市桜枝町*2に創立事務所を立ち上げたものの、当時の長野市長がポンコツだったせいで会社は思うようにならなかったという感じになります。

この丸山弁三郎市長も例によって例の如く、長野県民特有(?)の商売の下手くそさを持っていたらしく、どうやら計画に必要な資金回収などがうまく出来なかったみたいです…。何事に対しても善良かつ寛大な心をお持ちでいらっしゃるらしい筆者はオブラートに包んだ言い回しでまとめていますが、最後の方に書かれている当時の長野電鉄志賀高原の開発に成功していたこととは対照的であることが、そのことを如実に物語っているかのようです。

かく言う長野電鉄も、戦後は木島線の野沢温泉への延伸計画で地元や社内で一悶着を起こした挙句パーにしてしまい、折角の金蔓を台無しにしてしまったり、上田電鉄上田電鉄*3で地元の出資者などが東急の子会社化を拒否して一悶着を起こした挙句、折角五島慶太翁が立案した5ヵ年計画をパーにしてしまい衰退してしまったり*4といったように、他の私鉄においてもそのような傾向が見られるので、やはり長野県民が商売下手なのは事実なのかなぁと考えてしまいます…。

 

次回は第2章を読み進めていきたいと思います。

*1:当時の名称は大糸南線

*2:いわゆる善光寺大門の西側に当たるエリア

*3:当時は上田丸子電鉄

*4:余談だが、当時上田電鉄が東急の子会社化することに一番危機感を抱いていたのが、長野から上田への路線バス網を持っていた川中島自動車(川中島バスを経て現在のアルピコ交通長野支社)だったようで、会社存続のための自衛策として役員が慌てて東急へ株を売ろうとしたことがあったらしい

碓氷峠鉄道文化むらの保存車 補足編2021

去る9月11日は、オタク仲間と碓氷峠鉄道文化むらへ訪問してきたので、過去に撮影した2018年現在のものと比較して気になったものや気付いたものをいくつか挙げていきたいと思います。

 

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入ってすぐの元検修庫脇にある189系クハ189-506ですが、この日はそよかぜヘッドマークを掲出し、前照灯を点灯させた状態で展示されていました。

架線がないのが残念ですが、角度によっては現役時代に見えなくもなさそうですね。

 

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元検修庫内に保存されている、現存唯一の2次形ことEF63 18ですが、iPhone11の広角機能を使えば楽に全体が写せました。文明の利器の偉大さを感じますねw

 

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EF63 10やEF62 54は相変わらずでした。

これらは屋根のあるところに保存されているため、連結器もピンがサビで固着することなく良好な状態を保っています。

 

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ED42 1やTMC200も良さげな状態で保存されています。

巷では保線車の観察が流行っているらしいので、ついでにTMC200の銘板を撮ってみました。

 

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この日は程よい具合に曇りだったので、晴れていると逆光になって綺麗に撮れない保存車も、それなりに綺麗に撮れました。

露に濡れているEF62 1が特にかっこよかったです。


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EF63 1は前照灯が点灯した状態で展示されていました。

後ろのナハフ11が年を追うごとに劣化が激しくなっているのが気がかりなのですが、大丈夫でしょうかね…?

 

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D51 96には信越本線開業130周年記念のヘッドマークが装着されていました。

 

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スニ30 8は雨漏りがしているらしく、このような悲惨な状況を呈していました…。


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休憩所代用として使われている12系客車「くつろぎ」ですが、折からの新型コロナの影響で引き続き閉鎖されているほか、車体の劣化も進んでるように思えました。

2018年に訪問した際に車内の畳が雨漏りで腐っているところがあったので、この閉鎖に伴う放置で状態は更に悪化しているものと思います。

 

展示車両に関する全体的な所見として、やはり車体の劣化が著しい車両が多々見受けられるので、これらもクラウドファンディングを用いた修理費の募集をすべきなのではと思いました。

 

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園内周遊列車「シェルパくん」ですが、美しく復元された3950形が運用に就いていました。

客車のデッキにはアニメ「新幹線変形ロボシンカリオン」のメカのパネルが置いてありました。

 

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オマケその1:元詰所の鉄道資料館3階には、定刻起床装置の制御盤が残されていました。

コレを用いて一括して操作する感じらしいですね。


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オマケその2:漫画「カレチ」にて、雨の日に走行中のEF59のデッキから手動で連結器を解放する話があったのを思い出し、実際にデッキに登って解放テコを引こうとしたものの、全く上がらない上に床が濡れていて下に落ちそうで怖かったです…。

夢ハウスあずさの秘蔵品

昨夜は長野県上田市にある夢ハウスあずさ号にて宿泊をしたのですが、そのときにこんなものを見つけてしまったため、マスターに許可を得て撮影させていただきました。

 

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なんとアマガエルこと上田電鉄*15000系の乗務員扉が1組、183系の隅に保存されていたのです…!

まさかこんなところにこんなものが残っていたとは正直予想外でした。夢ハウス恐るべしです…。

こちらも館内に展示されている鉄道グッズ同様に過去に宿泊されたお客様から寄贈されたものらしく、奥の扉には寄贈された方のお名前が貼られていました。

 

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ドアはどの車両のものかは不明ですが、少なくとも東急へ返却された後にオモチャと化してしまったモハ5001のものではないと思います。

細部をよく見ると、旧塗装のアイボリーの上から雑に黄緑を塗ったらしく、ところどころに塗り残しがあるほか、東急時代のライトグリーンが剥がれたところから見えていました。

 

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片手で支えながら車内側も撮ってみました。

こちらは乗務員室の車内色であるグレーに塗装されておりまして、当時の面影を感じますね。

 

※夢ハウスあずさ号を訪問した際にこちらを見学される場合は、必ずマスターの許可を得てからの方がよろしいかと思います。当然ですが無断で触れた場合、あらぬ疑いをかけられる恐れがありますので、絶対にしないでくださいね。

*1:活躍していた当時は上田交通

連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 巻頭写真・まえがき編

どうも、走ルンですでございます。

先日予告した「善光寺白馬電鉄小史を読む」ですが、今回からちまちま進めていきたいと思います。

今回は巻頭の写真やまえがきを紹介していきます。

先ほどインストールしたばかりのGoogle先生謹製のスキャナアプリを用いてスキャンした画像ゆえに、元々不鮮明なオリジナルがさらに不鮮明になっている場合がありますが、その点はご容赦いただけると幸いです。

まずは表紙を。

 

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筆者の沖野幸一氏は、走ルンですとは異なり英語の教養があったらしく、英訳のタイトルも併記されています。表紙に1927~1980とありますので、長電で言えばED5000や600系が落成した年から地下化の前年までの歴史が綴られているということになりますね(笑)

なおこれとは別に巻末には、ほんへの概要を英訳したものも記載されており、一つの研究論文としても通用するレベルなのではないかと思いました。

 

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続いてこちらは本社の写真です。

現在もこの長野駅からほど近い、南長野駅が所在した中御所に存在するようで、敷地内に転轍機が保管されていることも有名ですね。

 

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続いて会社概要です。

善光寺白馬電鉄と、そのグループ会社の長野運送が紹介されています。

他にも上田運送やリース業などを営むリンギョーがありますが、それらについては触れられておりません。

右ページの北長野営業所は、JR貨物の北長野貨物駅付近に立地しており、あの辺りの貨物倉庫は大体長野運送のものになります。

恐らく沖野氏が描いたと思われるトラックの運転手のイラストがいい味を出していますね。

 

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写真は左上から「現車整備工場(原文ママ)」、「北長野駅の貨物積卸ホーム」、「一般区域用配送自動車」。「通運及び一般区域用貨物自動車」です。

整備工場は南長野とあることから、善光寺白馬電鉄の本社内にあるものと思います。庫内にはいすゞエルフの2代目後期または3代目前期形と思われる車両がいるのがわかります。

北長野駅の貨物ホームは現在は使われていないもので、当時は有蓋車で運ばれてきた貨物を積み替えるために使われていたそうです。走ルンですは2000年代半ばまで、何故かこのホームにヨ8000やワム80000が留置されていたのを覚えております。

一般区域用配送自動車と書かれているのは、当時使われていたいすゞエルフと思しき車両で、不鮮明ですがグリルの形からこれも2代目後期か3代目前期のどちらかかと思います。

通運及び一般区域用貨物自動車と書かれているのは、日野レンジャーの2代目と思しき車両です。


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写真は左上から「デンカ・セメント専用側線(原文ママ)」、「給油所」、「北長野の倉庫(一般・商品・特別の各品目を扱う」です。

デンカセメントの専用線は2000年代半ばまで使われていたもので、末期は青梅川発の臨時貨物ということで、篠ノ井派出のEF64が4両ほどのタキを引き連れて信越山線を走っていたものになります。

給油所や倉庫もやはりJR貨物の北長野貨物駅の近くに所在するものです。

 

最後に前書きの本文です。

以下、全て原文ママの引用です。

 

まえがき

 

善光寺白馬電鉄は昭和4年11月10日に創業して以来、昭和55年で創立51周年を迎える訳ですが、その間には戦時下の企業整備や運送業の開設に寄って現在の盛業を見るに至っています。

鉄道関係の本やNHKのテレビ放送で会社のことは見聞していましたが、私が会社に興味を持ったきっかけは今年の3月(1文字判読不能)白馬の地元の年配者から昭和の初めに長野から山を越えて測量に来たことを耳にしたからです。

それから2度程会社を訪問すると共に自ら各方面を調査(1文字判読不能)資料の収集を進めて行った。

会社史は交易と産業、購買力と投資水準と云う交通史に触れなくては、適切な理解を得ることが出来ない。

こは結果だけでなく、そこに至る因果関係のプロセスがあるためで、善白の研究にあたっては鉄道業の窮状に追い込まれた主要問題である戦時下の交通事業にはいかなる範囲の自由が許され、運営単位の程度、民間及び公的所有の限界を歴史的背景に対置して、始めて十分に理解出来ると思う。

本書では従来の定期刊行物に見る、やや狭い叙述的技法から脱し、会社の変化に於ける原因と結果について、より広汎でより探究的、分析的な見解を取り、多様な交通形態について、それぞれを孤立的に研究するよりも、それらを相互関係の視点から考察する事に関心を向け、交通変化に於ける社会の変化と社会的効果の意義は深く、現代的な現象を歴史的因果関係で考察しようと試みた。

善光寺白馬電鉄は、鉄道業を本業としてスタートしたものの、その営業期間は戦前から戦中までの短期間に過ぎず、長野県内の人からも幻の善白鉄道として過去の記憶の中に生きているに過ぎない。

戦後の事業復興からは鉄道業以外の運輸業を積極的に子会社の長野運送に寄って開発し、発展しつつ今日に至っている。

したがって社名の電鉄自体その本質とは事業内容を異してするが、必ずしも鉄道史ではなく運送業を含めた会社史として発展の経緯に興味を抱く人々の歴史的関心の契機として後世に保存伝達させるべく目的で文書化を計った。

ささやかな本書ではあるが、これら最近の研究成果に言及する様に努めては見たものの、内容的には不十分な点が多く鉄道時代が中心となった為、特に戦後の運送業が大変に不完全ですが多少なりとも理解いただければ編集した私自身、幸いの事と思う次第であります。

 

昭和55年7月13日

 

以上の文章が2ページにわたって記載されているわけですが、筆者の善光寺白馬電鉄への興味・関心や研究に対する熱い思いを感じさせる素晴らしい前書きであると思います。

本文前半にあるNHKの番組が何を指しているのかは、当時の番組の現存状況*1からしても不明としか言いようがありません…ご存知の方がいらしたら、コメントにてご教示いただけると幸いです。

また当時白馬に住む年配者から聞き取りを行なっていたことは、現在でいうところのあかつき3号氏がニコニコ動画に投稿している「迷列車で行こう 九州編」の鞍手軌道を取り上げた回のようなものを感じます。ここまで真摯な姿勢で研究を行なっていたとは、本当にすごいと思います…。

筆者が本文で述べいる通り、これまでに発刊された善光寺白馬電鉄に記載された書籍は「善光寺白馬電鉄は戦時下に廃止になった悲しい運命を辿った鉄道です」的な内容で終わりにしているものがほとんどで、戦後に運送業者としてどのように発展しているかという点にも着目していることは、本当に素晴らしいです。だからこそ、このような読み応えのある77ページになっているのかなと思います…。

 

次回は第1章を紹介したいと思います。

*1:執筆当時はテレビ番組の映像を保存する概念が希薄だった時代であったため、この善光寺白馬電鉄を取り上げた番組も現存していない可能性がある

《緊急予告!》連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 開始にあたって

突然ですが皆様は「善光寺白馬電鉄」という、かつて長野県長野市で鉄道を営んでいた会社はご存知でしょうか…?

 

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現在はトラックによる貨物の運送業を生業としているこの会社は、本来は長野市白馬村を結ぶ電気鉄道を敷設せんということで成立したものです。しかし折からの不況や資金難などの影響により、実際は2両のガソリンカー*1を用いて南長野~裾花口間約7kmを運行するだけの小規模な鉄道になりました。

路線は起点から4駅目の信濃善光寺駅を過ぎると山間の集落を通り善光寺温泉へと至る路線で、わずかな利用客と湯治客が主だったからか、戦時中に国から不要不急線の烙印を押されてしまい、開業からわずか7年で運行を休止してしまいました。

その後は鉄道復活のためにさまざまな運動が行われたものの、裾花ダムの建設が引き金となる形で復活計画も断念されてしまいました。

 

そんな善光寺白馬電鉄ですが、一般に閲覧のできる鉄道に関する資料は多くなく、あったとしても不完全な感じが否めない記載のものが多く感じます。

2014年に新装版が出版された「信州の鉄道物語」においても、他のページとの兼ね合いからか15ページ程度のものとなっており、読んでいて物足りなさを感じました。また中学生向けの社会科資料集の「郷土長野市」に至っては1ページに簡潔にまとめられているだけであり、到底満足のいくのもではありませんでした。

 

そんなモヤモヤを抱えながらも、ある日何気なくメルカリを見ていると、「善光寺白馬電鉄小史」というタイトルの古びた緑色の紙ファイルの出品を発見しました。

売価は3万円強…しかし出品者の説明を読むと、77ページにわたって貴重な情報が網羅されているとのこと。コレは…と思いつつも、一度に3万円強を出す勇気のない走ルンですは、そのときはただ「いいね」をしただけで、踏ん切りがついたら買おう程度に考えていました。

 

そして時は流れ、何気なくヤフオクを見ていると、こちらにも「善光寺白馬電鉄小史」というタイトルの(ry

メルカリを開いて確認すると、どうやら出品者が改めてヤフオクへ出品し直したらしく、既に競りは穏やかに始まっていたばかり…ヤフオクならどうにか安く入手できそう…そう思ってウォッチリストに突っ込むと、終了の日までしばらく待つ事にしました。

 

やがてオークション終了の日となり、改めてヤフオクを開くと…なんと前まで穏やかだった競りがいきなり荒れているぞ…!ということに気付きました。

一気に1万円以上を突っ込んだ人がいるらしく、入札しては高値更新の通知が来るイタチごっこに…

あぁコレはやばいと思い、終了間際に2万円弱を突っ込んで様子を見ると……どうやら競っていた落札者が諦めたらしく、このたび無事に入札することができました。

 

こうした走ルンですの手元にやってくることが決まった「善光寺白馬電鉄小史」ですが、目次やヤフオクのサムネで公開されていたページを見ると、これまでどの本にも書いていなかった項目や写真が多々あることに気付きました。

先述の通り、善光寺白馬電鉄の歴史は闇の彼方に包まれていることがまだまだ少なからず存在し、その中には著者や関係者しか知り得ない事実もあるのだろう…そう思うと無闇にこの資料を死蔵させてるのは勿体無いと思うようになりました。

恐らく競っていた落札者も自己満足の資料や単なるコレクションとして手元に死蔵するつもりだったのだろうか…そう思うと、手にしたからには新しい事実の公表や正しい歴史の伝導をしなければならない…そう思うようになりました。

 

以上のような経緯から、このたびこの場を借りてインターネットで調べてもこの世に1冊しかないらしい「善光寺白馬電鉄小史」*2を、思い切って公開してみようかと思います。

賛否細々あるかと思いますが、この貴重な資料を歴史の彼方に埋もれさせるのは勿体ない…そんな気がしてなりません。また仮に走ルンですが死去してしまった場合、この貴重な資料が処分されてしまい無になってしまう可能性も否定はできません。そのためこのブログにさえ書いておけば、電子の海に記録が残るため、仮に原本が消失したとしても、はてなブログがサービス終了→消滅しない限りは残るでしょう…。

 

目安としては1回の記事に1項目、図や表はスキャンした上で公開したいと思います。

また単に載せるだけではつまらないので、「信州の鉄道物語」などと重ねながら、ちょいちょい解説を入れてやっていく予定です。

 

記事作成は現物が到着次第、手隙の時間を縫って行うつもりです。それまでは気楽にお待ちいただけたら…と思います。

 

願わくばこれから作成する記事を通じて、善光寺白馬電鉄のあゆみがいつまでも後世に伝えられるようになれば…と思います。

*1:ガソリン機関を用いた内燃動車

*2:調べてみるとヤフオクやメルカリに出品される以前に長野市は権堂商店街の古書店で売られていたらしく、それが第三者の手元を経由して走ルンですの元へ流れ着いたことになるらしい

12両編成運転開始記念乗車券

今回の切符これくしょんは、「12両編成運転開始記念乗車券」を紹介いたします。

京浜急行は関東私鉄では最長の12連の電車を朝夕のラッシュ時を中心に運転していますが、これはその運転開祖を記念して発券されたものになります。

 

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入れ物は白地のシンプルなもので、裏には当時の最新型・旧1000形黒幕車をイメージしたイラストがあります。

 

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乗車券は5枚組で、やはり旧1000形黒幕車の写真やイラストがあしらわれており、連結両数の変遷を表したイラストも添えられています。

裏面は全て平日の12連特急の運転ダイヤが印刷されており、当時の様子をうかがい知ることが出来ます。

なおこの当時は12連の運転を横浜~文庫間のみで行っていたようで、現在の品川まで拡大されるのは後の出来事のようですね。

 

今回は以上です。

附属中学前駅開設1周年記念乗車券

今回の切符これくしょんは、「附属中学前駅開設1周年記念乗車券」を紹介いたします。

附属中学前駅は、走ルンですの母校である信州大学教育学部附属長野中学校が、現在の信大教育学部のある場所から移転した際に、最寄駅だった朝陽駅から徒歩で連絡していたのを改め、通学の便を図るために1985年に開設されています。この乗車券はその1年後の1986年に発行されたものです。

 

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入れ物はB5サイズの封筒で、赤色のインクで写真や路線図、さらには当時の時刻表が刷られています。

当時は木島線がまだあったので、長野発木島行の列車が多数設定されていたのが興味深いですね。

 

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乗車券はアルミの下敷風になっていて、長野~附属中学前間の往復と附属中学前駅の入場券の3枚組です。

この校舎や体育館は現在も使用されており、在学中に補修工事と冷房化がなされましたが、当時中学3年だったので冷房の恩恵を受けることはあまりありませんでした…。体育館は今もボロい非冷房なのではないでしょうか…?(隙あ自語)

走ルンです帰宅部だったのと当時のことは一切知らないので存じませんが、テニスラケットとボールが写っているのは、テニス部がそこそこ強かったからこそのイメージなのかなと思います…当時を知るOBの方がいらしたら教えていただけると幸いです…。

写っている電車は当時の主力車・赤ガエルこと2500系C1編成です。

 

裏面はカレンダーになっているのも、下敷風なのと併せていかにも本校の学生向けといった感じがしますね。

 

今回は以上です。