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連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 第1部第1編第2章編

前回は会社創立までの過程を読んでいった「善光寺白馬電鉄小史」ですが、今回は第1編第2章を読み進めていきたいと思います。

第2章は「鉄道事業の創始」というタイトルで、鉄道事業を始めてから工事の着工に至るまでの経緯が詳細にまとめられています。

 

まずは第1項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

2-1. 善光寺白馬電鉄の創立(創立と役員の選任)

長北鉄道計画がまとまったところで委員会が開会され、「長北鉄道」から「善光寺白馬電鉄」と改められた。

 

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創業時より使用の看板(善白、蔵)

 

これは事業計画の推進に於いて長北鉄道ではその名称が平凡である為、公表に当って注目される事の意図からと両端地の有名な観光地を呼称する事の観光目的から長野市善光寺と北城村の白馬岳の名称が使用される事になった。

電鉄の呼称は電気鉄道の計画であったから当然ではあるが、当時の背景として=大正15年9月30日に佐久鉄道系の河東鉄道が長野電気鉄道を吸収合併して長野電鉄(1文字判読不能)商号変更したことから影響が考えられる。

(2文字判読不能)で発起人一同は、昭和3年9月24日、善光寺白馬電鉄と改めると共に、まず会社設立に先立って会社設立趣覚書を一般に公表した。

その大要は第1章で触れた内容に通づるものである。

こうして全ての準備が整ったところで、昭和4年11月10日、創立総会が開催されて善光寺白馬電鉄が設立された。

資本金は200万円、本社は長野市桜枝町の設立時前より使用中の創立事務所がそのまま本社として置かれた。

役員の顔ぶれとして立見豊丸、羽田重一朗、丸山弁三郎らが選任され、取締役会に於いて社長に立見豊丸、副社長に羽田重一朗が就任した。

立見豊丸は東京在住の軍人で単なる大口株主で実際の経営実務を担当したのは後に善光寺大本願の執事を務めた羽田重一郎、長野市長の丸山弁三郎らの役員各位であった。

社長に就任した立見豊丸は陸軍の軍人で、豊丸の父立見尚文(1845~1907)は明治維新時代の伊勢桑名藩士で後に陸軍大将、男爵となる、軍部の大立物であり、日清・日露の両戦争に従軍した著名な軍人であった。

 

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立見尚文(原本写真がかなり不鮮明なため、Wikipediaパブリックドメインより引用)

 

息子の立見豊丸も同様に軍人となり、第11期の陸士卒業で、明治41年12月11日~44年11月29日までに於ける第23期陸軍大学校の卒業生であり、卒業時には砲大尉で最終職名は砲大佐で陸軍第1師団(東京)の野戦重砲兵第3旅団(国府台)の野戦重砲兵第7連隊にいた。

当時の社会的背景から貴族や軍人には資産家が多く、大口株主として各方面の企業に資本及び経営に賛力していた例が多く、立見豊丸もその一人で他にも数社の役員を兼任していた様で、善白に対しては大口株主の出資者と云う事から社長に選任された様であり、経営の実務には直接的にタッチはしていなかったと云う事である。

(数文字判読不能)顔役としてその立場を務めた訳であり、その後は羽田重一朗が代表取締役を務めている。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

長北鉄道として発足した会社は、本格的な設立に向けて社名を現在の「善光寺白馬電鉄」へと変更しています。この社名には観光路線としての営業を意識したものであり、「電鉄」の社名は大正15年に河東鉄道と長野電気鉄道が合併し、現在の長野電鉄になったことが影響していると考察されています。

当時、電化地方私鉄の社名として「電気鉄道」*1と称するところが多いところを、それを縮めた「電鉄」と称したのは、とても先進的というかモダンな感じだったらしいです。なお当時は鉄道会社の社名を省略すると公式サイドがブチギレする時代だったようで、有名な例では西条八十作詞の歌謡曲:東京行進曲の作中で歌われた小田原急行鉄道*2の逸話が残されています*3。そのような時代故に、自らの社名に略称の「電鉄」を用いることの斬新さを感じていただけたらと思います。

当時の社長は立見豊丸という軍人だったらしく、とりあえず出資した中で資産に余裕があることから社長として選任されたみたいです。ただし経営には関与していないものの、会社の看板役的な感じであったとのことです。

 

続いて第2項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

2-2. 工事施工認可をかく得(測量、内燃動力への変更)

電気動力による地方鉄道の敷設免許を得た善光寺白馬電鉄は、さっそく工事施工認可申請を行なった。

そして昭和5年11月8日に全線の約半分に当る南長野~鬼無里間20.8キロの工事施工認可をかく得と同時に昭和5年~6年にかけて全区間の概略的測量が実施された。

なお施工専門の本格的測量は工事着工時に行われた。

南長野から右折して市内の西部地区を通り裾花川に沿って西上し芋井村、柵村、鬼無里村を通り、柳沢峠には約2キロのずい道を予定していた。

この時、長野から人夫達を連れて山越えをして来た事実は現在でも北城村(白馬村)の年配者の間で善白鉄道測量隊の呼称で語り草となっている。

当初、動力は電気を計画していたが、経費節約を目的にガソリンカーの投入が計画された。

工事施工認可と前後してガソリン動力使用認可を受けているがその理由として各私鉄が不況打開策として電車より30パーセントもコストの安いガソリンカーの投入により輸送力を増強して自動車に対抗しようとした当時の社会情勢や車両、建設費を節約すると同時に変電所設置に依る建設費の節約が目的であった。

更に日本車両を始め、汽車会社、川崎車両、梅鉢鉄工所、雨宮製作所と云った各車両メーカーのガソリンカーの開発とマーケティング活動を行なった事も見逃せない。

こうした例は当時開業した私鉄の中で五戸電気鉄道(五戸鉄道→南部鉄道→南部バス昭44年廃止)や、水戸電気鉄道(常陽運輸昭13年廃止)と云った蒸機・内燃鉄道があった。

善光寺白馬電鉄の社名であるが、こうした起点・中間点・終点・観光地名を鉄道名に並べる例はスイスの私鉄でよく見かける事があり、それぞれのアルファベットを組合せた呼称を呼んでいるのと同様に年配者や昔の利用者は善白線又は善白鉄道と呼称している。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

善光寺白馬電鉄は昭和5年に南長野~鬼無里間の敷設免許を取得し、その年に白馬までの測量を行なったとのことです。柳沢峠というのは長野市鬼無里の奥地にあるところで、ちょうど越えた先が安曇野になるみたいです。そのためそこは2kmほどのトンネルを以って通過することを見込んでいたと記されています。

第2項ではガソリンカー採用の経緯も記されており、同じ県内でも丸子鉄道*4が停電時の運転や、バスに対抗するためフリークエントサービスを向上する必要性からガソリンカーを導入しており、ちょうど親会社の東急*5東横線でやっていたことに似たようなことをやっていたみたいです。東急の件では文中で語られているように、当時の川崎車輌が東急へ売り込む形で提案したことであるらしく、内燃動車の黎明期ゆえに各メーカー共に製造実績の獲得に躍起になっていたことが考えられます。

なお後に語られるガソリンカーは、日車製のものが導入されており、これは近所の飯山鉄道や佐久鉄道のものと互換性を持たせるためであったというのが定説です。

茨城の水戸電気鉄道の話はかなりマイナーですが、青森の南部鉄道が五戸電気鉄道と名乗っていたことは、割と有名なお話になるのかなぁと思います…というか、南部鉄道自体がかなり前に鉄道を廃止して南部バスになって、つい最近まで元京急いすゞC系を一般路線で日常的に使ってたということの方がオタク的に有名な話になるような気がします…話が脱線してすみません()

最後に善光寺白馬電鉄の社名はスイスの鉄道に似たものであると締め括られていますが、観光などを意識したものとして先述の上田電鉄の元となった上田温泉電軌などが県内に存在するため、これが唯一というわけではないと思います。

 

最後に第3項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

2-3. 開業までの経緯(着工まで5年間の延期)

こうして着工の段階に入り工事着手への本格的準備を整えたものの当時は株式市場大暴落に端を発した金融恐慌の後の世界的な不況時代で建設費の予想外の高騰によって建設予算は大幅に膨張した。

資本金は200万円であったが、建設を完遂させるのには少なくとも100万円以上への増資が必要であったが当時の経済情勢下では事業資金融通のめどは皆目つかず増資がまとまらない為、資金・資材への調達が出きずその上、鉄道建設が政治と結びついていた事も着工への大きな障壁となった。

政党政治と地方交通による疑獄事件に端を発した政友会と民政党の政党関係の紛争という陸運行…(以下2ページ欠落により内容不詳)

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

第3項ですが最初の方が少しだけでページが途切れているため、残念ながら全文をご覧に入れることができない状態です。

そのため、TwitterFacebookInstagramを通じて作者さまに関する情報提供をお願いしているのですが、今のところそれらしき情報はひとつもございません…。

以下は情報提供を呼びかける実際のツイートです。

 

 

もしこちらをご覧の方に作者の沖野幸一氏に関してご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントにてお知らせいただけると幸いです。

貴重な鉄道資料や正しい歴史をを後世へ伝えていくためにも、ご存知の方はご協力いただけると幸いです。

 

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*1:県内では松本電気鉄道(アルピコ交通)や布引電気鉄道(現在は廃止)などがある

*2:現在の小田急電鉄

*3:ある日突然レコード会社に西条八十を出せと小田急の重役が乗り込んで来たため訳を聞くと、歌詞の中で自社の社名を勝手に略した上に駆け落ち電車とは何だ!と大層腹を立てていたとのことであった。

*4:後に初代上田電鉄と合併して現在の上田電鉄

*5:当時は大東急成立前ゆえに東京横浜電鉄であった。