前回から始めた連載企画「善光寺白馬電鉄小史を読む」ですが、今回からほんへを第1部から読み進めていきたいと思います。
今回から3回にわたって読み進めていく第1部は「前史」というタイトルで、会社創業までの経緯から鉄道が休止するまでのことがまとめられています。
第1章は「創業期」というタイトルで、建設までの経緯ということで、長野市から白馬村の間を結ぶ野望を抱いた小さな鉄道が如何にして建設に至ったかが詳細に記されています。
まずは第1項をご覧ください。
誤字・表記等は全て原文ママとなります。
1-1. 長北鉄道の発起と計画の趣旨(当時の交通事情)
長野市は山国信州の中心として栄えると共に、善光寺を始め志賀・妙高・戸隠などの観光地への玄関口として知られている。
一方、白馬方面は、明治時代に北アルプス地域を調査した鉱山局のイギリス人鉱山技師ゴーランド(William_Gowland)が"日本アルプス"と命名、イギリス人宣教師ウェストン(Walter_Weston)が4回にわたって踏査し、「日本アルプスの登山と探検」(1861)をロンドンで出版して以来、世界的にも有名になった。
大正5年には東久邇宮稔彦殿下、7年には久邇宮邦彦殿下が白馬岳へ登頂した。こうした皇族や有名人の旅行はその地を観光地として軽井沢と共に有名にする結果になった。
皇族のお泊まりも多かった白馬館 大正12~13年頃
(毎日新聞より)
しかし当時の交通事情では大糸線の一部になっている信濃鉄道が松本~信濃大町間を営業しているものの白馬方面へは大町から白馬館の乗合自動車(大町~小谷)が運転されているのみであった。
大正末期から昭和初期に長野から北城村(現 白馬村)への鉄道の構想が打ち出され、延長36.2キロの電気鉄道(軌間1067mm)での敷設が計画されるに至った。
この件に対しては事業を発揮して実現させると云う意図から議会に於いても熱心な意見が盛んに唱えられ活発な動きが見られた。
当時の長野市長、丸山弁三郎は自ら代表発起人として委員長を務め、市の有力者の他、沿線の各村の村長など計84名の発起人を得て鉄道敷設の計画と準備が進められ、免許の申請を行った。
認可申請のこの時点では始点及び終点の両端地名の頭文字を取って長北鉄道と称された。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
ざっくりまとめると、白馬は明治期よりイギリス人によって世界的に紹介されて以来、有名な観光地としてその地位を確立したものの当時はまともな交通手段がなく、その不便を解消するために北信地方の観光地の玄関口である長野とを結ぶ鉄道が計画され、それが長北鉄道として認可申請を受けるに至ったという流れになります。
ちなみに大糸線*1が白馬まで延伸したのは昭和7年のことで、それまでの間は乗合自動車以外の公共交通は皆無だったことになるみたいです。
善光寺白馬電鉄は廃止後に自治体を巻き込んでの復活の動きがあったことは有名な話ですが、開業前の計画段階でも沿線の自治体の首長が発起人となっていたことはあまり知られていないかと思います…。それだけ沿線がこの鉄道に対して大きな期待を抱いていた、ということなのでしょうかね。
後に車両の項目でも述べられていますが、使用していたガソリンカーの形式に社名の「ゼ」を用いていたことは、現在の私鉄や三セクの軽快気動車のそれに先んずるものであり、これらは現代で言うところの「マイレール意識」を感じさせるエピソードのひとつなのではないかと思います。
続いて第2項をご覧ください。
誤字・表記等は全て原文ママとなります。
1-2. 免許かく得と計画の具体化
この計画に基づいて昭和2年11月16日、地方鉄道法に寄る長野~白馬間の地方鉄道敷設免許をかく得した。
設立意見書の中の地方鉄道敷設免許
計画の概要は、裾花川上流の木材資源は莫大なものであり、木材需要への輸送手段並びに、裾花峡や白馬地区の観光開発を行う為の解決策には長野から北城村(白馬村)までの鉄道敷設が最上策であり、沿線人口は少ないが鉄道の利用価値は大であり将来性がある。もっと身近な問題としては善光寺温泉、芋井村(長野市)、柵村(戸隠村)、鬼無里村への旅客、物資輸送が極めて便利になり、沿線の人々への多大な恩恵を与えるものであると云う内容であり、昭和3年7月8日には創立発起人会が開会され、長野市桜枝町に創立事務所を設けた。
長野から白馬までの鉄道敷設計画は企業の理想実現への願望で極めて困難な面が多く、又計画は途中で変質し消えるかも知れないが消滅し変貌するまではその会社の打ち出した計画は、内部では「そうなりたい」と云う企業の目標として生き、外部では会社に対して「そうしてほしい」と云う欲求表現につながるものである。
又、権力や偉業に対する憧れも、その企業の価値観を育むのに大きな力をもっているが、単に偉業をなし遂げた政治家や財界人に対する個人的なパーソナリティの憧れのみならず、その背景にある時代の道徳、価値観を考えておかなければならない。
社会に対して何が立派な事業であるかは、その時代の倫理によって違って来るからである。
それだけに、鉄道事業のもたらす権力や偉業に憧れた願望の価値づけを長期的、歴史的、社会的観点から十分検討したうえで市場因子としてみていかなければならない。
丸山弁三郎市長はは進歩的な考えの持主ではあったが、経営の現実としては、激しく燃える郷土愛だけからではなく、ある程度の採算性と、利権上のうま味が必要である。
計画を進めるに当っての意欲的な政治活動、資金の裏付け工作の点では保守的であったようだ。
この事は、地方中小私鉄の企業的インセンティブの乏しさを物語る事であり、沿線に白馬を始め渓谷や温泉と云った観光資源を有していたにもかかわらず、これらを大規模温泉街でや登山・スキーのレクリエーション場としてコミュニケーションを展開するだけの企業力がなかったのは明白であるし、県内では長野電鉄の志賀高原の開発があった位である
大手の場合、戦前では東武の根津嘉一郎が日光鬼怒川を国際的観光地にした企業戦略の展開が有名である。
結局、丸山弁三郎の打ち出した、白馬地区の観光開発は戦後になって東急の進出まで陽の目を見なかった。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
こちらもざっくりまとめると、昭和2年に晴れて免許を獲得し、昭和3年に創立発起人会が立ち上げられ、長野市桜枝町*2に創立事務所を立ち上げたものの、当時の長野市長がポンコツだったせいで会社は思うようにならなかったという感じになります。
この丸山弁三郎市長も例によって例の如く、長野県民特有(?)の商売の下手くそさを持っていたらしく、どうやら計画に必要な資金回収などがうまく出来なかったみたいです…。何事に対しても善良かつ寛大な心をお持ちでいらっしゃるらしい筆者はオブラートに包んだ言い回しでまとめていますが、最後の方に書かれている当時の長野電鉄が志賀高原の開発に成功していたこととは対照的であることが、そのことを如実に物語っているかのようです。
かく言う長野電鉄も、戦後は木島線の野沢温泉への延伸計画で地元や社内で一悶着を起こした挙句パーにしてしまい、折角の金蔓を台無しにしてしまったり、上田電鉄も上田電鉄*3で地元の出資者などが東急の子会社化を拒否して一悶着を起こした挙句、折角五島慶太翁が立案した5ヵ年計画をパーにしてしまい衰退してしまったり*4といったように、他の私鉄においてもそのような傾向が見られるので、やはり長野県民が商売下手なのは事実なのかなぁと考えてしまいます…。
次回は第1部第2章を読み進めていきたいと思います。
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