連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 第1部第2編第3章編

前回は不完全な第1章と第2章を読んでいった「善光寺白馬電鉄小史」ですが、今回は第2編の第3章を読み進めていきたいと思います。

第3章は「陸運企業整理(陸上交通統制)と営業休止」というタイトルで、とうとう営業休止に至るまでの経緯がまとめられています。この項はほんへが文章のみで構成されているため、読んでいて眠たくなるかと思いますが、貴重な歴史資料の一つということで、お付き合いいただければと思います。

 

まずは第1項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-1.ガソリン消費規制と鉄道業界

昭和16年8月、アメリカが対日石油輸出禁止の措置をとった事に依り、同月7日、政府はガソリンの配給停止、全自動車代燃化の方針を打出した。

戦局の悪化に伴なって石油類の消費規制が強化され、鉄道・自動車の全面的代燃化が強制された。

この結果、木炭や天然ガスの代燃車改造が行なわれたが鉄道車両の場合、機能的にも困難が多く大半の気動車は客車化され国鉄昭和19年11月までに気動車の蒸気車置換を全面的に実施している。

この影響は我国のみならず中立国のスイスにまで及び石油・石炭の輸入ストップで電化を増進、電気加熱式のパンタグラフ蒸気機関車を生んだ。

内燃鉄道の暗黒時代と云え、この事は内燃動力専門の善光寺白馬電鉄にとってはますます不利な方向へと追い込まれて行く結果になった。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

皆様ご存知の通り、太平洋戦争中における戦局の悪化は燃料統制を生じたため、内燃動車や内燃機関車を用いる鉄道にとっても大打撃となりました。そのため木炭を用いた代燃装置の取り付けや天然ガス動車(天然ガスが産出する千葉や新潟地区の国鉄線で改造されたという)への改造をはじめ、客車化や使用の停止といった措置が各所で採られました。本ブログで取り上げている善光寺白馬電鉄以外の県内の鉄道の詳細な様子は存じませんが、飯山鉄道の買収車は全て客車として使用されていたほか、上田電鉄にいた車両は電車に増結する付随車として使われたそうです。

スイスのパンタグラフ蒸気機関車の件は有名な写真がネット上にたくさんあるので、興味のある方は調べてみてください…というか、このブログをご覧になっている方は一度はご覧になっているものと思いますので、きっと語るまでもないですね。

 

続いて第2項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-2. 戦時輸送体制の展開(高度国防体制と私有鉄道)

陸運に於ける戦時体制基幹的機構は、国家総動員法が委任勅令として制定された陸運統制と、同法による重要産業団体例に基づいて設立された鉄道軌道統制令であった。

この統制機構を通じて私鉄はあげて戦争目的に奉仕せしめられ、輸送力増強の為にあらゆる手段が講じられた。

昭和16年11月に改正された統制令の要旨は大要次の内容である。

  1. 国有鉄道・地方鉄道の運送の順位を定め、不要不急の運送を拒絶し、重点輸送の実をあげる。
  2. 地方鉄道・軌道・自動車業を政府が管理運営し、場合によっては、これを収用して国営とすることができる。
  3. 設備資材の活用の為、譲渡・貸渡を命令する事ができる。
  4. 資材の状況により、設備の新設・拡張・改良を制限することができる。
  5. 旅客運送を行う地方鉄道・軌道に対して貨物運送を命令する事ができる。
  6. 能率向上の為、事業の委託・譲渡・合併を命令する事ができる。
  7. 不要不急の事業は、休止または廃止させて資材の転用を図る。

こうして地方鉄道・軌道・自動車の各運送事業は、戦時統制下に置かれる事になった。

その結果、私鉄の鉄道・バスの統合は半強制的となり、県内ではバス会社の統合と昭和18年丸子鉄道と上田電鉄の合併で上田丸子電鉄*1が成立した。

この事は又、都市交通統制と地域的交通独占の成立につながり昭和19年運輸通信大臣に就任した東急の五島慶太は東京西南ブロック(含む神奈川)の私鉄を全て買収、合併して独占し、関西の大阪電気軌道、参宮急行電鉄(近鉄)も関係会社に置き、更に地方中小私鉄も買収(長野県内では昭和20年に草軽電鉄を買収)*2して、東急コンツエルンを形成する企業は百社を越え、中国大陸・東南アジアの交通事業、ホテル、農牧場経営、金山開発まで行なった。

東急の場合、一方的併合のケースであるが関西地区の場合はあくまでも政策に沿った統合にすぎない。

統制と併行し、中小私鉄の休廃業や準幹線的要素が強い軍事上の重要路線の国有化推進で長野県では昭和18年に伊那電気鉄道、三信鉄道、19年には飯山鉄道が国有化された。

企業整備によって不要不急線の撤去・転用が行なわれたが、昭和18年~20年までに補助を受けた休止鉄道は36企業165キロ、補助を受けなかったもの(廃止)は17企業、62キロに及んだ。

統制会がほかならぬ独占資本の戦時支配形態であり、資金資材の集中で、莫大な戦時利得の獲物は都市の大私鉄の懐に流れ込んだのに対し、地方中小私鉄は資本の強制整備、労働力の強制動員による戦争経済の犠牲になったにすぎない。

この事は整理された中小私鉄が戦後の再建と復興をむずかしくしかばかりか企業としての機能を絶望的方向へと追い込んだ。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

戦時下の鉄道に対する統制に関しても、このブログをご覧になっている方は説明するまでもないでしょう。かの東急が五島慶太翁の政策によって「大東急」として関東一円を中心に勢力を拡大していた、まさにあの時代です。その後ろ縦になった法律が陸上交通統制法というもので、鉄道会社やバス会社をエリアごとになるべく一つにまとめることで、いざとなった時に国がそのエリアに属する会社を運営することが目論まれていました。

また目ぼしい私鉄の国鉄への買収や不要不急線に指定された私鉄の廃止も進められ、その影響で様々なところに様々な弊害が生まれました。

このような流れは当然長野県内でも多々起きており、文中で述べられている初代上田電鉄と丸子鉄道が合併して上田丸子電鉄が成立したり、国鉄飯山線小海線大糸線飯田線が買収に伴い成立したりしたといった例があります。長野市内においては、市内の交通事業者を基本的に長野電鉄川中島自動車*3の2社に統合することが進められていたものの、その中に善光寺白馬電鉄が含まれなかった理由は、次の第3項を読むと見えてくるのかもしれません。

 

最後に第3項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-3. 事業運営の衰退(善白運送の設立と営業休止)

昭和16年11月より工事を再開した第2期工事は裾花口まで開業後も継続して実施され、裾花峡を通過する裾花口~芋井間の第5~8号隧道の掘さつ工事を続行したが戦局の激化に伴って、資材の入手難から思うようにはかどらず、結局、延長線の建設工事は資材不品により断念せざるを得ず未完成に終り実現できなかった。この間、昭和18年6月30日に善白線各駅に於ける小運送の取扱いと営業を目的に資本金10万円で善白運送株式会社が設立され善光寺温泉に本社が置かれた。

戦時下に於ける小運送業の動向は小運送二法の制定と日本通運㈱の設立で軍事貨物等の取扱い数量の大きい駅に於ける小運送業日本通運への一元的運営であり、昭和18年1月になると統合は更に強化されて運送会社は同一経済地域に1社と云う基本線を打出されるに及び、国家的統制が施工され、準統合と日本通運への統合が行なわれ、「陸上運送事業者ニ対シ陸上運送業ノ委託、受託、譲渡若ハ譲受スル会社ノ合併ヲ命ズル」の権限による統合作業が終戦時まで行なわれた。

しかし、関東甲信越地方を中心に227の未統店が残っていた。昭和18年12月、企業に対して国家性をより浸透させる為軍需会社法が施行されるに及んで各種制限措置はますます強化されて重点輸送と云う建前から、18年8月運輸通信省並びに鉄道軌道統制会は私鉄のうちで利用度の少ない鉄道・軌道の廃止・転用の具体案を決定した。

これは、山間僻地線の休止、不要不急線の単線化、観光地の鋼索鉄道(ケーブルカー)の休廃止を行ない、その資材を最重要路線の整備・建設に転用すると云うもので、戦争終了後の復旧を容易してする為、休止期間中に於ける最低限度の補修費・事務費及び過去3か年間の平均益費を交付する事とし、昭和21年までに補助制度は続けられ、補助実績は昭和19年度に24社で91万円、20年度には30社126万円にのぼった。

こうした背景から18年12月に善白も休業届けの提出の指示け、翌19年に入ると戦局の悪化に伴って鉄鋼資材の回収が急がれた為、不要不急路線と指定され企業整備を受け19年1月11日付をもって営業を休止した。

この時の整備を受けた企業は善白線の他、成田鉄道*4、琴平急行電鉄など合計10社で所属路線の全部又は一部を休止した。

休止と同時に善白線の橋梁・軌条はただちに出動した陸軍の工兵隊に寄って撤去回収が行なわれ産業設備営団に売却された。

産業設備営団とは昭和16年以後、公共性のある企業を営む為の特殊の企業形態として発生したもので、それぞれの営団法及び他の法律に基づいて設立された訳であり、産業設備営団をはじめ帝都高速度交通営団、住宅営団、農地開発営団、重要物資管理営団、その後身の交易営団、食産営団があったが戦後、帝都高速度交通営団(東京の営団地下鉄)*5を残して他は全て廃止された。

昭和17年から日本軍の南方進出と占領によって得た支配地域の陸上交通行の経営を鉄道省、日通、東急の1省2社が委託され、それとは別に京成がセレベス、ボツネオに進出して終戦まで続けられたが、この軍事政策に基づき、善白線から回収された軌条は同時期に撤去された成田鉄道、琴平急行電鉄等と共にインドネシアのセレベス島に向けて輸送されたが、セレベスには鉄道らしい物が見当たらない点からして多分、軍事施設の建設資材に使用されたのであろう。

橋梁は国内軍需工業の専用線用として配給されているが、これらは軍事的にも重要な際に新設・復旧用として置かれた為、その為に未使用のまま戦後まで保管された。

車両は気動車が各1両ずつ上田丸子電鉄*6江若鉄道(江若交通、昭和44年廃止)に譲渡され、貨車2両は福島電気鉄道(福島交通)にそれぞれ譲渡された。

休止に際して、政府から約45万円を保償の名義で受理するが復活時のみ有効と云う命令から、その特別金は全額政府の戦時下に於ける特殊金融機関に保管された。

休止時の34人の従業員は全員国鉄へ職員として移管され役員並び関係者の3名のみが残された。

この34人の中には女子事務員等も含まれていたが、当時は戦局の推移で男子が不足して、それを補充する為、女子勤労報国隊員として電車の運転士や車掌にも女子が登場するに至り、19年3月23日に女子挺身勤労令の発令により女子挺身隊として22年2月まで続けられた時だけに、それに従事した事は云うまでもない。

19年2月子会社の善白運送は小運送業の免許をかく得するが休止中の為、営業を行っていない事は云うまでもない。

戦局悪化による本土決戦に備えて県内には長野師団の新設と19年秋より郊外の松代に大本営の建設が開始され約90%を完成した所で終戦により未使用となった。(現、地震観測所)*7

こうした背景から善白では第1~3号隧道が長野師団の弾薬庫に使用されると共に軍需物資の貨物増大から旧南長野駅に於いて日本通運の下請けによる荷積作業や軍需工場の荷積及び製品保管に気動車庫仕様が行なわれた。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

善光寺白馬電鉄は昭和18年に善白運輸という運送会社を設立し、各駅における小荷物の取扱いを開始しました。これは戦時下における企業整理の一環として不要不急線に指定されてしまうことを見越したものといわれていますが、真相は不明です。これに関して前項で述べた陸上交通統制法に基づく企業整理からあぶれてしまったのも、恐らくは不要不急線としての休止が確定していたからであることが考えられますが、これに関しても真相は不明です。また続けられていた路線の延伸工事も資材不足から中断の憂き目に遭っています。

同社の鉄道線は山間部の過疎地をを走る路線であったことが災いし、結局は不要不急路線として休止命令が下ってしまいます。そのため昭和19年1月を以って営業を停止し、線路や橋梁は軍需物資として直ちに陸軍の手で回収されてしまいました。レールはインドネシア・セレベス島に京成電鉄が敷設していたセレベス開発鉄道用として輸出されたと言われていますが、戦後になって復活を検討した際に所在が明らかになったとの記述が「信州の鉄道物語」などに見られることから、沖野氏の考察の通り実際には輸出されずに温存されていたものと考えます。

車両に関しては後に述べられますが、この地点では内燃動車として上田電鉄江若鉄道へ譲渡されています。その後の変遷については現地点では割愛いたします。

善白線の跡地はトンネルが弾薬庫として使用されたとありますが、その他のトンネルも本土決戦時に皇族の避難所として使う予定があったとの言い伝えがあります。これはトンネル内に御料車を引き込んで平時はトンネル外、空襲などの有事の際はトンネル内に退避して暮らすということを想定していたとのことですが、京成電鉄上野付近のトンネルを使用した運輸省の地下壕が環境的に不適当なことから早々に使用の放棄がなされたように、仮に実現していても使用期間は短いものであることが考えられます。

 

この記事を以って第1部は終了したため、次回から第2部を読み進めていきたいと思います。

 

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*1:上田交通を経て現在の上田電鉄

*2:現在は東急グループから離脱

*3:川中島バスを経て現在のアルピコ交通長野支社

*4:現在の千葉交通

*5:現在の東京メトロこと東京地下鉄株式会社

*6:現在の上田電鉄

*7:執筆された1980年現在の地点では象山地下壕の一般公開はされていなかった