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連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 第1部第1編第3章編

前回まで不完全ながら建設までの経緯を読んでいった「善光寺白馬電鉄小史」ですが、今回は第1編の第3章を読み進めていきたいと思います。

第3章は「第1期工事の完成と営業開始」というタイトルで、こちらも一部ページが欠落していることから不完全ですが、第1期線開業から運行の実態などがまとめられています。

 

まずは第1項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-1. 建設の経過(工期を2期に区分/第1期工事の竣工)

不況による資金難と政党紛争の影響で延期されていた工事着工も昭和10年になってやっと開始の運びとなった。満州事変後の軍需産業を中心とする諸産業の進行により景気もようやく上昇していった事が工事着手を可能な方向へと導いた。

しかし、こうした列強の措置は、我国の軍国主義化の格好の刺激要因となり国際関係を緊迫化させ、第2次世界大戦へと進展していった。

工事方法については南長野~善光寺温泉間の…(以下2ページ欠落により内容不詳)

 

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工事着工により資材が到着する南長野、昭和10年

 

 …こうして南長野~善光寺温泉東口間5.8キロメートルが昭和11年11月16日に竣工し、竣工監査後営業許可を受けて11月22日より営業開始し、12月28日に善光寺温泉まで0.6キロメートルが竣工し12月26日より営業を開始すると東口仮駅は廃止された。

車両は乗客も少ない見込であったので66人乗りの小型のボギー式ガソリン動車にし、1両を常用、1両を予備車として計2両購入した。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

ここも前回読み進めていった第2章3項のように欠落しているページが2ページもあるため、全体的な話の概要が不明です。

そのため、こちらも同様にTwitterFacebookInstagramを通じて作者さまに関する情報提供をお願いしているのですが、今のところそれらしき情報はひとつもございません…。

以下は情報提供を呼びかける実際のツイートです(再掲)。

 

 

もしこちらをご覧の方に作者の沖野幸一氏に関してご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントにてお知らせいただけると幸いです。

貴重な鉄道資料や正しい歴史をを後世へ伝えていくためにも、ご存知の方はご協力いただけると幸いです。

 

続いて第2項をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-2. 南長野~善光寺温泉東口仮駅間の開通

善白線の南長野~善光寺温泉東口仮駅間5.8キロメートルは竣工監査の結果、正式の営業開始許可を受け、昭和11年11月22日より営業運転を開始した。

この日は、善光寺白馬電鉄にとって、又この地域にとって初めての路線開通であり、同時に当社に於ける営業開始と云う歴史的な記念すべき日であった。

会社関係者、来賓による開通式の挙行がされ、新車2両には国旗が飾られ、又沿線の各駅には万国旗やモールによって美しく装飾されて、開通祝いの記念が催された。

従業員は乗務員・駅務員の計21人で設置された駅は6駅であったが、起点の南長野と信濃善光寺に駅員が配置されているだけで、あとは駅員無配置駅であった。

 

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開通当日の善光寺温泉東口仮駅

 

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開通当日の茂菅停留所

 

旅客列車運行は全線通し10往復、信濃善光寺折り返し往復であった。

又、貨物は南長野~信濃善光寺のみで取扱いを行なった。

国鉄との連帯運輸は旅客、貨物共に行なっていなかった。

 開業に際し、立三豊丸に代わる社長をさがしていた所、大口株主で東京の日本橋兜町にある山二証券社長の片岡辰次郎が選任され社長に就任した。

片岡辰次郎(明治5年~昭和15年1月1日)は愛知県常滑市坂井の出身で、小学校卒業後やがて上京し明治44年に証券業を開業時多くの事業に関係していた。

昭和15年に辰二郎が死去すると息子の片岡晴次が事業の一切を相続し、善白の社長に就任した。

片岡晴次(明治22年4月25日~相和47年6月10日)は愛知県立安城農林学校の卒業で昭和19年1月の営業休止時まで役員を担当していた。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

善光寺白馬電鉄は当初南長野~善光寺温泉東口仮駅間で開業したものが、後に正式な善光寺温泉駅まで延伸したことで第1期線に当たる南長野~善光寺温泉間が開通しています。

この当時、列車は1日11往復でうち1本が途中の信濃善光寺駅で折り返す運用だったとのことで、当時の時刻表を閲覧できる機会があれば実際に見てみたいと思います。

また有人駅は起点の南長野駅信濃善光寺駅の2駅のみで、貨物の取り扱いも有人駅がある区間のみといった感じだったそうです。ほとんどの駅が無人駅ということで、本当にささやかな小鉄道といった感じだったのでしょうかね。

 

続いて第3項をご覧ください。

ここはさらにいくつかの項目に分かれるため、それぞれ別に紹介したいと思います。

誤字・表記等は全て原文ママとなります

3-3. 第1期工事(南長野~善光寺温泉間の開通)

・開通と本社の移転

善光寺温泉東口仮駅~善光寺温泉間0.6キロメートルは4号隧道付近の地すべり多発から一部工事方法の変更があった為、予定より1ヵ月程遅れて、昭和11年12月23日竣工、12月26日から開業の運びとなった。

これにより南長野~善光寺温泉間6.4キロメートルの第1期工事は完成した。

列車の所要時間は、南長野~信濃善光寺間が8分、信濃善光寺~善光寺温泉間が9分の計17分で表定速度は22.6km/hと云うのんびりした運行であった。

 

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役員と関係者のスナップ 昭和12年、2~3号隧道間にて

※左から3人目が片岡辰二郎社長

 

普通旅客運賃は18銭(片道)で、又貨物についても全線を通じて取扱いを開始した。

茂菅、善光寺温泉には各1軒の旅館あり、開通当初はもの珍しさの為賑いを見せた。

善光寺温泉の旅館(現、善光寺温泉ホテル)*1は裾花渓谷山中の1軒宿ながら温泉プールの設備などがあった為、週末は超満員の混雑となり、臨時列車を増発運行して乗客をさばいた。

 

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善光寺温泉駅 昭和11年

 

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善光寺温泉全景 昭和11年(左に温水プールが見える)


南長野~善光寺温泉間が開通したところで、昭和12年善光寺白馬電鉄は本社を創立時の長野市桜枝町から南長野駅の本屋、市内中御所に移転した。

これは営業が開始された路線の状況を的確につかむ必要性からであった。

本社とは云え駅の本屋との兼用の建物でまるで田舎の村役場と云った感じであったが以後ここを本拠地として会社の活躍が始まる。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

続いて第3項の中編その1をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-3. 第1期工事(南長野~善光寺温泉間の開通)

・開業後の状況

こうして開業した善白線も開業早々はもの珍しさからかなりの乗客で賑ったが、開業数日後から運輸収入は激減した為、開通後の業績は思わしくなく無配を続けていた。

 

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紅葉狩りの記念スタンプ

 

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善光寺温泉 昭和12年


第1次大戦前までは、鉄道は近代的陸上交通の独占企業であったが、大戦後急速に台頭し始めた自動車企業は鉄道企業の独占を侵し始めた。

1920年代後半からの道路輸送の成長は、鉄道に輸送量と収入の喪失につながた。

バスやトラックによる貨客の自動車輸送は便利で費用が安い為にコストの高い鉄道の需要低下が根本的原因である。

自動車企業は①資本が少なく固定化しない。②営業の開廃に対する法的規制がゆるい。③移動営業が可能で経済的運行をなしうる。④燃料用のガソリンが低価格になりつつあると云った企業形態上のメリットがあるのに対し、鉄道は法律によって基準運賃が義務づけられ、手続き上の統制を受ける事で補助金制度があるにしても自己に相当の損失を覚悟せざるを得ない二重の不利をこうむっている訳である。

この結果、事業規模の小さい地方の中小私鉄はたちまち倒壊状態に追い込まれた。

これら地方の中小私鉄の殆どが、わずか数台の車両を有するのみで、運転本数も少なく重要性は極めて少ない事は明らかであった。(善白は昭和13年6月の改正で全線13往復、うち下り4本、上り3本が不定期運行。)

この為自動車との競争に負けて転廃業を余儀なくされる地方の旅客輸送を主とする中小鉄道会社が現れ、その数は昭和元年から15年までに87件、年平均8件弱に上った。

 

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このような激烈な自動車鋼製に直面して私鉄がとった対抗策の主なるものは、自ら自動車輸送を経営することであった。

 昭和12年末には、旅客輸送を行なうほとんど全部の地方鉄道・軌道は、直営ないしは傍系企業を通じて乗合自動車業を経営するようになり、乗合道路交通は私鉄資本によって統轄支配されるようになった。

注目すべき事として丸子鉄道*2昭和8年10月、丸子町駅にバス連絡用の完乗式ホームを設け、和田峠線の省営自動車(国鉄バス)を電車に横付けさせた事実がある。

善白の場合、平行路線に裾花自動車があったが兼営及び買収といった防衛策を取らなかった為に川中島自動車(大正14年12月、10万円で創立)*3昭和9年9月に裾花自動車を合併した為、これと競合すると云う不利な結果をこうむっての営業の状況となった。

利用する旅客は芋井村、小田切村から市内へ行く通勤・通学の定期券利用者に限定され、他にも東京近郊で見られる様な背負子や背負籠姿(数文字判読不能)の若干利用にとどまり、旅客の利用が朝夕に集中のみであり、乏しい経営の結果開業以来欠損を続けていた。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

続いて第3項の中編その2をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-3. 第1期工事(南長野~善光寺温泉間の開通)

・政府補助金の収受

この政府補助金と云うのは地方鉄道の保護・育成を目的として、運輸数量の少ない、しかも地方交通上必要な地方鉄道の維持改善に、あるいは地域開発を目的とする地方鉄道の新線建設に政府が一定の補助金を交付したものである。

 

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1号隧道出口 昭和12年

 

 大正8年私設鉄道法並びに軽便鉄道法が廃止され、新たに地方鉄道法が施工された為、私鉄の補助についてもそれまでの軽便鉄道補助法を改めて、地方鉄道補助法が制定された。

その内容は軌間0.762メートル以上の地方鉄道で営業の毎年度に於ける益金が建設費に対して7パーセントに達してない時、建設費の5パーセントを限度として不定額を補助すると云うものであった。

善白の場合、開業より輸送の伸びはあったものの1日の収入合計平均は約50円に過ぎず経営は欠損を続け営業収支は継続して赤字であった為、政府に対して補助許可申請を行い昭和13年上期より交付され、昭和10年の営業休止まで補助金による政策の救済と助成を受けていた。

 

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引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

続いて第3項の後編をご覧ください。

誤字・表記等は全て原文ママとなります。

3-3. 第1期工事(南長野~善光寺温泉間の開通)

・善白と県内私鉄の状況

昭和に入ってからは不況の為、県内私鉄はいづれも苦しい経営内容で比較的安定していたのは長野電鉄と終始好調で配当を出していた丸子鉄道*4で、上田電鉄*5ものちに好転するが他社はみな欠損を続けていた。

当時の地方中小私鉄の経営の背景と云えば、大半の路線は採算性よりも利権を無視した地方の有力者や資産家の郷土愛や路線を開業する事にって個人の社会的地位や名誉の高揚を目的としたもので、開業後の業績不振の際は国有化によって補償金、買収資金のかく得が目的であり、関係者が役員となり名を連ねる事が普通で株式の一般公募についても沿線住民に反強制的出資を行なわせる事が多く、欠損を続けて無配の株券をもった小口の個人株主からは反感を大にする原因となった。

この結果、会社解散に追い込まれた池田鉄道はその一例であり、又、不法な営業休止で免許取消処分を受けた布引電気鉄道の場合、補償金受理の失敗から計画倒産を計った可能性が強く経営内容に疑惑が持たれる。

この事は政党にうまく渡りをつけて国家に売りつける事に成功せず、経営合理化にも失敗した企業は破産の道をたどるか、大鉄道に身売りするしかなかった。

その他保守的経営の会社も欠損を続けて補助金を得ても赤字額がそれを上回る状態であり、国有化された佐久鉄道*6信濃鉄道*7、毎年頻繁な取締役の更送が行なわれた草津電気鉄道(草軽電気鉄道)*8や金融機関に管理された伊那電気鉄道*9、電力会社に支配された飯山鉄道*10松本電気鉄道(東電系)*11、三信鉄道(東邦系)*12が揚げられ、これに対して救済も私鉄救済策を講じ、補助の延長をし、昭和12年3月に新補助法を公布し12年以降も補助金を受けられるような政策がとられた。

善白が政府補助金を仰ぐ事になったのも、こうした背景から経営上やむなき手段であった事は云うまでもない。

又、欠損続きで会社独自の営業が不可能となると都市の投機的資本家が再建目的に介入するものの本来の目的は国有化による買収資金のかく得やレール、車両を売却して利益をあげる事にあり、昭和13年に鉄材の値上りで車両、レールを売却して廃止した武州鉄道はその一例で、更に悪質な者となると営業中の車両やレールまでの所有権を債権者やブローカーに売却し無許可のまま休止して売却資金等の一切を手にして、またたく間に会社を倒産させてしまう手口もある。県内の布引電気鉄道はその可能性が強いが、まだ解明されていない点が多い。

 

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

最後の第3項は4つに分かれているので、一気に読み進めてみました。

善光寺白馬電鉄は開業時はそれなりの利用があったものの、結局は沿線人口が希薄な土地を通過していることから利用はかなり少なく、経営はとても厳しいものであったとのことです。また副業として当たり前になっていたバス事業を始める事もなく、現在のアルピコ交通長野支社に旅客を奪われるという悪循環に陥っていたそうです。

そこで政府からの補助金を頼みにした運営が行われることとなり、営業休止時までずっと補助金を受給していたとのことです。

第4項で述べられている通り、当時から長野電鉄の経営はとても良好であったらしく、北信地方の都市間電車として一定の成功を収めていたことが考えられます。…というよりも、長電は県庁所在地たる長野や更埴の中心地たる屋代を起点に、須坂や中野、松代*13などの人口の多い場所を通って、湯田中や野沢などと言った温泉地の入口までを結んでいることから、利便性さえ確保すれば「放っておいても勝手に人が乗る」、言わば都市部の鉄道路線のような感じだからこそ、良好な経営であったことが考えられます。要は他所の県内私鉄が苦境に喘ぐ中で、チートみたいに人が多かったり観光需要があったりする場所でuneiしていたからこそ、ということになります。だからこそ戦後になって、大手顔負けの特急ガール付き座席指定制ロマンスカーや、20m4ドアの本格的な通勤電車を走らせるに至ったのですが、それはまた別のお話になります。

また現在の上田電鉄の元になった丸子鉄道は、丸子町で産出される生糸などの輸送で儲かっていたことが考えられますし、初代上田電鉄も小県地方の足としてそれなりに実績を積んでいったのがこの頃であると考えられます。現在のアルピコ交通が東電系になっていたのは、戦後に建設が行なわれた奈川渡ダムなどの梓川流域における電源開発を見込んだものでしょうか。

池田鉄道や布引電気鉄道は、共に旅客が少なかったことで「シジュウカラ電車」と呼ばれて揶揄されていたと現在に至るまで語り継がれているものです。前者は現在の大糸線に当たる信濃鉄道の子会社であったものの、動力の内燃化を経て結局は廃止に至っています。

 

次回からは第2編を読み進めていきたいと思います。

 

次の記事

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前の記事

mc127-100.hatenablog.com

*1:1990年代後半に土砂崩れの影響で廃業

*2:初代上田電鉄と合併し上田丸子電鉄→上田交通を経て現在の上田電鉄

*3:川中島バスを経て現在のアルピコ交通長野支社

*4:初代上田電鉄と合併し上田丸子電鉄→上田交通を経て現在の上田電鉄

*5:丸子鉄道と合併する前の初代上田電鉄

*6:現在のJR小海線

*7:現在のJR大糸線

*8:現在の草軽交通

*9:現在のJR飯田線

*10:現在のJR飯山線

*11:現在のアルピコ交通

*12:現在のJR飯田線

*13:当時はまだ元城下町としてそれなりに活気があった。衰退していくのは'90年代辺りから。