前回の記事で本編を読み終えた「善光寺白馬電鉄小史」ですが、今回は資料編を見ていきたいと思います。
この資料編では路線や車両、会社組織に関するデータがわかりやすくまとめられています。特に車両に関しては気になる方が結構いらっしゃるのではないでしょうか?
まずは第1項にあたる会社の発展図と題された図をご覧ください。
沖野氏が手書きで作図されたものと思われます。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
組織の変遷などの詳細はこれまでの記事をご覧いただけると幸いです。
続いて第2項にあたる「技術」の項目です。
ここに路線の施設や車両についてがまとめられているので、気になる方は是非お読みいただけたらと思います。
まずは「建設(施設)」をご覧ください。
誤字・表記等は原文ママとなります。
○建 設(施 設)
橋梁
主要な橋梁は1号 61.264メートル、2号 39.044メートル、3号 36.58メートルでこの内3号は側橋である。
橋台・橋脚などの下部構造はいづれもコンクリートで、上部構造は鉄桁製で工事は順次、足場を組んで架設した。
1号~3号はいづれも橋台2礎、橋脚2礎で、他に長野市街地を通過する為、山王に県道と立体交差をする高架橋があった。
隧道
茂菅と善光寺温泉の間の山間部には4つの隧道があり、いづれも単線隧道で断面は半月馬蹄形、主施行法として底設導坑式を採用して作業はショベルによる人力土工で掘削を行った。
覆工はコンクリートで軌条面上の高さは電車線の吊架が可能な高さによる隧道定規がとられた。
残土は一部山王付近の高架橋構築に含まれる築堤用の土盛に使用された他各所の路盤用土盛になった。
延長は1号 159.56メートル、2号 202.25メートル、3号 164.05メートル、4号 211.22メートルでその他南長野で国道18号線と立体交差する為に跨線橋を開削してアンダークロスとしていた。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
主な橋梁として紹介されている1号~3号橋梁は、いずれも信濃善光寺~茂菅間で裾花川を横断するために架橋されたもので、現在も裾花川に当時の橋脚が残されています。
また山王駅の高架橋は1990年代まで橋台が残されていたものの、現在は築堤の石垣のみが残されています。ここの廃線跡は県道の拡張工事の影響で消失する見込みであるため、観察に行くなら今のうちということになります。
トンネルも全て現存しているものの、ところどころ天井が崩落していたり入口が土砂で埋没していたりと、年月の経過に伴う風化が進んでいるのが現状です。国道18号の「みすゞ橋」の下を通るところは、片方の入口が塞がれたまま現存しており、今もその名残を留めています。
建設概要には路線の詳細がまとめられているので、参考までにご覧いただけたらと思います。
続いて駅設備についてです。
こちらも沖野氏がまとめられた表をご覧ください。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
7駅のうち有人駅は南長野、信濃善光寺、善光寺温泉、裾花口の4駅で、他は無人駅になります。
有人駅はいずれも駅舎や貨物の積み下ろし場や側線を持ち、車庫は南長野、保線区は信濃善光寺に併設されています。善光寺温泉駅と裾花口駅に貨物ホームがあるのは、裾花峡に挟まれた奥地への物資輸送を見込んでのことだったのでしょうか。
続いて「車両」の項目です。
誤字・表記等は原文ママとなります。
○車 両
半鋼製2軸ボギー式ガソリン動車ゼ100形
善光寺白馬電鉄は第1期線(南長野~善光寺温泉間)の開業に備えて、昭和11年6月、ゼ100・101の2両を日本車輛東京支店に於いて新製した。
日本車輛が地方中小私鉄向けに製造した第2次形の半鋼製の2軸ボギー車で、同形車に神中鉄道(相模鉄道、昭和20年~22年まで東急が管理)キハ30形がある。
全長12.02メートル、最大幅3.555メートルで車体のみの寸法は全長11.3メートル、車体幅2.6メートル、高さ3.47メートルであった。
車体は、丸屋根の布張りで外板は茶色塗装で昭和15~16年に国鉄長野工場に全検入場の際、国鉄気動車と同様の青色及びクリーム色の2色塗装となった。車内設備はロングシートの座席に照明は白熱灯で、正面は丸味を描き、左側に運転台を置き、ドアは両端にあり、手動式2扉で乗務員用扉はなかった。更に冷暖房はもちろん車内放送もなかった。
発動機は米国ウォーケッシャ製ガソリン機関78.5馬力で変速機はクラッチによる機械式4段変速で制御した。
台車は気動車用の菱枠型で、車輪直径は860メリメートルであった。
形式称号のゼは社名の頭文字をそのままつけたものである。
ゼ100形の変遷
昭和19年1月11日の営業休止によって2両共に他社へ譲渡される事になり、ゼ100は19年4月28日付で上田丸子電鉄*1へ譲渡されて同社のキハ301となった。
一度ガソリンカーとして試運転を行なっただけで附随化して別所線でサハとして使用された後、23年に電車に改造されてモハ311となった。
改造に当っては東急から来たモハ1形木造電車の米国ブリル製76E型鋳鋼台枠軸バネ式台車に交換され、ステップを撤去して丸子線に使用、29年モハ3121に改番後30年から西丸子線に転出し、同線が36年に休止38年に廃止の為、別所線に移り44年の丸子線廃止で車両が余った結果、44年11月18日付で廃車された。
ゼ101も19年に滋賀県の江若鉄道*2に売却され同線のキハ14となった。
しかし、ガソリンの入手困難の為に客車代用として使用された後、戦後になってからガソリンカーとして営業用に使用されたが、小形の為に他形式車との運用には輸送力の差が生じ適合性が異なる為に整理され昭和22年に和歌山県の野上電気鉄道*3に譲渡された。
譲受後、電車に改造されてデハ22として使用されたがその後の車両整備に伴って不要となり昭和34年に廃車された。
木製有蓋4輪貨車ワ10形
第2期の一部延長(善光寺温泉~裾花口)の開業と輸送力増強の為に昭和17年12月、富山県の加越鉄道(現在の万葉線)から大正2年関製作所製の木製有蓋貨車ワ1形(3,8)の2両を譲受けてワ10形(11,12)とした。
営業休止後は2両共、福島電気鉄道(福島交通)へ譲渡され飯坂西線に配置されたが同線の貨物需要が少なく、ほとんど使用されずに廃車された。(昭和23年9月の認可で使用開始、昭和35年3月10日付で廃車。)
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
在籍していた気動車のゼ100形に関しては、休止後に譲渡された先で電車化されたということが有名かと思います。この車両の日本車輛で造られた12メートル級78馬力ガソリンカーというスペックは、同じ県内の飯山鉄道*4や佐久鉄道*5に納入されたものと同じものであり、特に飯山鉄道には半流線形の車体を持つ同型車であるキハ100形が在籍していました。これは近隣の私鉄と同仕様の車両を発注することで、整備時における互換性などを持たせたものといわれています。車内に暖房はないものの、現車の屋根にはストーブの煙突を通すための穴が開けられており、冬季には車内にストーブを積むことで暖房の代替に使用するつもりだったとのことです。実際にはそのようなことをした事実はなく、冬季も暖房なしで運用されていたそうです。
塗装は導入時は茶色一色だったものが、昭和15年ごろに当時の気動車標準色である紺と黄褐色のツートンカラーに塗られたそうです。善光寺白馬電鉄の有名な写真に高台から撮影された橋梁を渡るガソリンカーのものがありますが、それに写った車両の色はそのような感じだったということになります。なおこの国鉄気動車標準色は、当時のドイツにおける高速気動車・フリーゲンターハンブルガー号のものを参考にしたらしく、当時の新聞記事では明朗な色と紹介されていますが、元になったフリーゲンター(ryと比較すると、地味な色合いに劣化コピーされていることがわかります。
江若鉄道→野上電鉄と渡り歩いた車両や貨車についての詳細は存じませんが、上田電鉄へ譲渡された車両は、3120形モハ3121号車として西丸子線で使用されていたのが有名かと思います。本文中では上田電鉄が譲り受けた目蒲電鉄→東急モハ1形の部品を使用した旨の記述がありますが、実際は新規に購入したモハ1形の部品を用いて電車化されています。廃車後は上田原電車区にて車体が倉庫として残されていたものの、1986年の昇圧と共に電車区が下之郷へ移転した後に解体されてしまいました。なお東急モハ1形の車体をガソリンカーのものへ交換したものは、3220形として使用されていました。
参考:上田電鉄3120形モハ3121号(RML「上田丸子電鉄(下)」宮田道一ほか(2005)より)
参考:野上電鉄20形デハ22号(RML「野上電気鉄道」寺田祐一(2013)より)
参考までにRMLより、掲載されている電車化改造を受けたのちのゼ100形の画像を引用いたします。どちらもガソリンカー時代の半流線形の車体に、かつての面影を残していて面白いですね。
続いて「保守」の項目です。
誤字・表記等は原文ママとなります。
○保 守
〔南長野気動車庫〕
昭和11年11月、善白線(南長野~善光寺温泉東口間)の開通と共に開設した。
所属車両がたったの2両の為、検修設備はなく仕業検査のみを行い、定期検査が行なわれる際には維持修繕と共に国鉄に依頼し長野工場まで回送していた。
〔信濃善光寺保線区〕
開業と同時に保線業務を行なう為に保線事務所が設立され、信濃善光寺に設置された。
保線班による作業員によって線路保守が行なわれたが、営業線が短区間の為に線路状態に応じて随時修繕方式で人力作業が行なわれた。
軌道構造は軌条が30キログラム(1メートル当たり)の軌条長10メートルの物を使用、分岐器は6番轍さの組立て式で道床は玉砂利、枕木はナラ・ヒバ・カラマツなどが素材のまま使用されていた。
〔踏切道〕
善白線は運行回数の少ない地方の閑散線であったが保安度向上を図る為に道路との立体交差化を実施しており、南長野の国道18号線・山王の県道がそれである。
この結果、道路通行量が少ない箇所に第4種踏切道があるのみにとどまった。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
車庫は南長野駅構内に設置された気動車庫で仕業検査を行っていたとのことで、全検などの際は国鉄長野工場へ回送して行うという、現在のしなの鉄道やえちごトキめき鉄道などの第3セクター鉄道が採っている方法を用いていたとのことです。恐らくは飯山鉄道や佐久鉄道も同様の手法を採っていたのではないでしょうか?
保線区は信濃善光寺駅に設けられたものが中心となり、保守が必要な個所は随時出張して点検を行う方法が採られていたそうです。レールに短尺の30キログラムレールを使用していたのも、この当時の一般的な地方私鉄にありふれたものですね。バラストに玉砂利を用いていたり、枕木に防腐加工を行なっていない木材をそのまま使用していたのも、資金力の乏しい地方私鉄ならではのものかと思います。それでも耐久性のあるナラ材やヒバ材などが用いられていたのですね。
最後に第3項にあたる「その他」の項目です。
この項目は2つの表からなる1ページのもので、スキャンしたものをご覧頂けたらと思います。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
ここでは2年ごとにおける鉄道運輸成績表と、長野運送の昭和48年から昭和54年までにおける利益金処分状況推移表が掲載されています。
以上をもって資料編は終了です。
次回で最後の記事になる見込みです。
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