連載企画・善光寺白馬電鉄小史を読む 第2部第4編第1章&第2章編

前回は第2部第3編を読み進めた「善光寺白馬電鉄小史」ですが、今回はその続きにあたる第4編を読み進めていきたいと思います。

ここでは運送事業の発展や鉄道事業の衰退についてがまとめられており、本格的に運送業者としてスタートを切った同社についてや、今まで誰も知らなかったと思われる驚きの新事実を知る事ができます。

 

この項目は内容が濃厚なだけ結構長いので、今回は第1章と第2章を見ていこうと思います。

まずは第1章「運送事業への移行と成長」を見ていきましょう。

ここではタイトルの通り、拡大する運送事業についてが触れられています。

それでは第1項をご覧ください。

誤字・脱字は全て原文ママとなります。

1-1. 運送事業の成長

ドッジ・ラインに基づく「経済の原則」が昭和24年から実施され、インフレーションはやや抑制されて、経済は安定の兆しをみせた。

まもなく昭和25年に発生したいわゆる「朝鮮特需」が戦後初の好景気を日本にもたらし、その後の高度成長に向っての足掛りをととのえさせたの事は周知であり、25年より31年の「神武景気」に至るまでの間に貨物輸送のトラック転移傾向が進んだ。

1950年代に入ると物資輸送の前途を熟考し自動車による運輸業務を採用し、貨物を鉄道から貨物自動車に切換える事の傾向が強まり、輸送能力の乏しい軽便鉄道の廃止、更には地方中小私鉄の衰退につながっていった。

後の運送事業発展は重量トラックの導入と自動車ネットワークの建設は、かつて鉄道が出現したと同様に顕著な現象であった事がわかる。

昭和34~35年の「岩戸景気」は、貿易の自由化や池田新内閣による所得倍増政策などが民間の設備投資ブームを呼び運送事業に於いては第2次産業の機械油・セメント・化学工業品の輸送景が増大し、昭和41年に於いて、トン・キロ分担率で自動車輸送が鉄道貨物輸送を上回る様になり、その伸長が著しい。

反面、同業者間の競争の激化、自家用トラックの普及、人件費を始めとする諸経費の増加策に寄り、必ずしも安定した収益を期待するに至っていない実情であり経営規模拡大化の傾向が促進される事となった。

長野運送の場合、会社自体経営が弱かった為、業績の低めいと苦しい経営状況を続けたが、通運業・一般区域貨物自動車業・倉庫業の各営業を続けた。

あくまで鉄道事業復活を目的にそれが実現する時への起業化の足掛りとして通運・貨物運送業は長野運送を土台にして発展していった訳で、その後の成長に伴い資本金も昭和27年8月に1000万円、38年3月に2000万円、41年3月に5000万円に増額された。

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

昭和30年代から40年代にかけての我国は自動車が爆発的に増えていった時代にあたり、それに伴う自動車を用いた運送業も徐々に拡大していきました。しかしながら21世紀初頭の小泉政権下における規制緩和でもあったように、同業者同士の入れ喰い状態に陥ってしまい、事業の拡大化が見られたのだそうです。長野運送は鉄道復活のために必要な企業準備の土台として業績を少しずつ拡大していったのが、ちょうどこの頃にあたるらしく、資本金も年が経つにつれて増額されているのがわかります。

 

続いて第2章「休止路線復活の終結」を見ていきましょう。

本章の第1項は、なんとこれまでどの書籍でも語られてこなかった、衝撃の新事実がまとめられています。

それでは第1項をご覧ください。

誤字・脱字は全て原文ママとなります。

2-1. 東急の上信越進出と善白

傘下240社*1、総売上1兆4千億円にのぼる東急グループとその創始者五島慶太の事は今更いうまでもない。

今日、長野県内の主要企業だけで上田交通*2草軽交通*3ながの東急百貨店、鹿教温泉ホテル*4、白馬観光開発*5東急イン、と続くがこれもグループ内ではほんの一部にしか過ぎない。

 

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五島慶太(東急グループのすべてより)

 

五島慶太(旧姓小林)は、明治15年4月18日長野県上田市郊外の小県郡青木村の出身で昭和34年8月14日に死去している。東京帝国大学本科政治学部を卒業後、農商務省その後鉄道院(鉄道省)に転づるが、鉄道院総務課長の時、大正6年に飯山鉄道、9年に上田温泉電軌の設立に対し適切な指導と援助を与えている。

こうして郷里への進出と野望はその後、実業界へ身を投じた事で実現される事となる。

信越への進出は昭和20年に草軽電気鉄道(草軽交通)*6を買収した事に始まり、32年群馬バス*7買収、白馬観光開発*8設立、33年上田丸子電鉄(上田交通)*9買収、34年中越自動車*10おんたけ交通*11の買収と続く。

これに関連して東急が、善白の休止線復活及び、未設区間の建設をする意図があったとの説があるが、札幌急行鉄道の企画のような公式な資料については少なくとも残っておらず、五島慶太個人の構想であったと思われる。

彼の交通整備構想では、それを促進する為に県内の鉄道及びにバス会社を買収して一元化を図り、これを改善整備するか新設し、観光開発を推進し観光地の大衆化を図る事である。

しかし本人が他界した今、不明で明らかでないのが残念だが、他からの調べでは東急が白馬の観光開発を行なうに当って松本電鉄は東急から協力を依頼されて、滝沢知足社長が新設した白馬観光開発の取締役に就任し、34年頃、松本電鉄の滝沢知足から善白の羽田十一郎へ話しが持ち込まれている事から東急の善白買収計画が推定できる。

もしこの計画予定が真実ならば、この時期に於ける長野電鉄松本電鉄川中島自動車の買収予定の話しや34年7月のおんたけ交通買収(39年名鉄に売却)に於ける五島慶太と唐沢俊樹の関係や、生前に計画し死去後の36年から46年まで運行していた渋谷~長野までの長距離バス*12は一連の上信越観光開発構想の一部として見る事が出来、当然善白もその付帯計画として組み込まれてくるが、そこまで裏書できる資料は乏しく、今となってはこれまた解明はむずかしい。

又、この時東急では東洋製糖事件、ヒルトン・ホテル問題、伊豆急線建設等でもめていた時だけにその方に力がそそがれていた結果進出中の北海道、上信越が保守的に据え置かれた見方もできるが、五島慶太も晩年で余り動けなかった時だけに、机の上から関係者を指示して、その代行が行なわれていたので、善白の買収等の予定の意図についてもはっきりした確証はむづかしく、自然的解消とみてよさそうである。

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

なんとまさかの新事実……あの東急(実際は五島慶太個人の構想)が善光寺白馬電鉄の買収を検討していた、ということなのです!!

この当時、五島慶太翁が率いる東急は上信越地方の様々な交通事業者を買収したり、観光開発を推し進めていたとのことですが、その一環として善白に目を付けたらしい…ということなのだそうです。その証拠に東急が白馬観光開発を立ち上げるにあたり、アルピコに協力を依頼したらしく、その過程で白馬観光開発から善白側に何かしらの話があったのだそうです。恐らくは長野から白馬までのアクセス手段たる鉄道として、善光寺白馬電鉄を欲していたのではないでしょうか?

走ルンです長野電鉄買収の噂について特に聞いたことはないものの、本文中で述べられている東急と共同運行をしていた長野~東京間の都市間特急バスを足掛かりとして接触しようとしていたのではないでしょうか?、と考えます。ちなみに長野駅前にあるながの東急百貨店の成立は、五島慶太翁の乗っ取り政策とは無関係なので勘違いのないようご注意ください。

 

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写真は当時の都市間特急バスに用いられた東急バス車両の塗装を模した長電バス1841号車で、皆さまご存知の通り東急バスからの移籍車です。

 

なおこれとは別に、東急の信州地方への進出の影響にかなりビビっていたのが、現在のアルピコ交通長野支社、つまり当時の川中島自動車でした。川中島自動車は長野から上田を結ぶ長距離路線バスを運行していたため、現在の上田電鉄東急グループになったことは同社の幹部に大きな衝撃を与える出来事になりました。うかうかしているといずれ東急に乗っ取られるのでは、と危機感を抱いた役員が、東急に対し慌てて持株を売ろうとしたという出来事もあったそうです。結局役員の持株売却騒動は実行寸前に露見したことで中止となり、ことなきを得ています。

 

続く第2項では廃止許可が降りるまでの経緯がまとめられています。

それではご覧ください。

誤字・脱字は全て原文ママとなります。

2-2. 廃止許可

昭和37年に長野県は裾花川に多目的ダムの設置計画が打ち出されて地質調査が開始された。

落石が激しい地域で適地としての可能性は少ないが、場所は裾花口駅からやや上流の地点であり建設と云う事になれば善白の敷設免許の区間が一部水没する為に休止中の鉄道業の今後の有無についての処理が生じた事は云うまでもない。

 

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裾花ダム 昭和55年7月22日

 

善白の場合、戦後になってからも鉄道線の復活を考えいた為に廃止の許可は取らずに休止を続けていた。

ところが、それに対して独自で休止区間の復活を行なうだけの力が会社にはなく、いたずらに日が過ぎ去った。

戦後の鉄道のシェアの低下は進み衰退するに及んで昭和30年代に入ると地方の中小私鉄・バス会社は次々と大手私鉄に買収され、合理化から鉄軌道の廃止が行なわれた。

長野県では東急が草軽電鉄、上田丸子電鉄の両社合計94.9キロメートルを保有していたが交通業整備による体質改善策として草軽電鉄の全線、上田丸子電鉄も路線の大半を撤去した。

善白の休止線については南長野駅の本屋が善光寺白馬電鉄、長野運送の本社として使用、信濃善光寺善光寺温泉は一時住宅に使用の他、全般には復活の見通しが立たないまま長い時が過ぎた為に路盤の崩壊など荒廃化が進んだ。

更に市場構造の変化は地方中小私鉄の必要性を失なわせる要因となった。つまり、鉄道業は公共性のつよさのゆえに運賃その他でいわゆる公共負担と国家規制が大であり、更に道路交通の急成長がそれに加わり、腹背からの圧力で割りの悪い産業という髀肉の嘆を託ち、副業に憂身をやらざるを得ない事になった。

大衆的公共性はあくまで尊重されねばならないが、しかし私企業である以上は資金面に限度があり、途方もない資本投下をして路線開発をした所で採算が取れるはずのない時代がとっくに始まっているのは、誰が思案しても明らかである。

長期間の営業休止は善白にとって、もはや、鉄道復活による利権はおろか、その必要性までも時代の変化によって失われてしまっていたのである。

裾花ダムは間組によって施工され昭和45年から長野県による管理が開始されたが、それに先だって善白では県によってダム水没区間の一部用地買収が行なわれた事と関係筋から廃止の指示が出た事もあって、廃止の申請を行なった訳で昭和44年7月9日付で廃止許可となり長い休業路線の歴史に終止符が打たれた。

引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)

 

善光寺白馬電鉄の廃止は裾花ダムの建設が引き金になったといわれますが、それに伴い、休止区間をどうするか熟考した結果という感じであることが本文からわかります。

モータリゼーションの進展で鉄道のシェアが衰退していき、沿線人口が元々少なかったことも手伝って利用が見込めないこと、路盤の崩壊が多々あることなどから復活を断念せざるを得ない状況になってしまったからです。駅舎は信濃善光寺駅と裾花口駅が一時的な住宅として用いられていたとのことですが、どのような感じだったのでしょうか。善光寺温泉駅の駅舎は荒廃した状態で’80年代くらいまで残っていたことがRMLの機関車表に掲載された写真からわかります。また妻科駅の駅舎も昭和30年代くらいまで荒廃した状態で残っていたとの証言がネット上で確認できました。

ここでは触れられていませんが、自治体などが主導して信越本線飯山線豊野駅*13から分岐して戸隠や鬼無里へ至る「信越西線」構想も出てきたらしいのですが、こちらも結局はとん挫する形で終了しています。

 

次回は第3章を読み進めていきたいと思います。

 

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*1:2021年3月現在は230社5法人

*2:現在の上田電鉄。バス・タクシーは分社のうえ東急グループから離脱

*3:東急グル―プから離脱

*4:大江戸温泉物語系列になったため東急グル―プから離脱

*5:日本スキー場開発へ株を売却したため東急グル―プから離脱

*6:東急グル―プから離脱

*7:東急グル―プから離脱

*8:日本スキー場開発へ株を売却したため東急グル―プから離脱

*9:現在の上田電鉄

*10:現在の越後交通・東急グル―プから離脱

*11:東急グル―プから離脱

*12:2021年現在東急バスの中古車両をそのままの色で走らせているアレですね

*13:現在はしなの鉄道北しなの線飯山線