試作バスペーパークラフト その2

需要があるかは存じませんが、とりあえず第2弾ということでアルピコ交通立川バスに在籍したキュービックLTのワンステップ車を作ってみました。

 

 

アルピコだと長野(旧川中島バス)の42356・42357号車→99361・99362号車、立川バスだとH711号車→鹿児島交通1416号車として遊べます。

3両しか造られなかった、4枚折戸を持つワンステップの大型ナロー車ということで、割と有名な存在かと思います。

展開図の作成にあたっては、他の車両と部品を共用したり大幅にデフォルメしたりしているため、現車と異なる部位が多々ありますことをご了承ください。

複雑な部品がないため簡単に組み立てられ、A4の紙に印刷すると大判のペーパークラフトとして楽しめるのが仕様です。

好評でしたら色を入れたものも作ってみようと思います。

この展開図の著作権は全て趣味で作った走ルンですに帰属します。無断での転載や商業目的での利用はお断りいたします。

また色を塗ったものを各バス事業者様に無許可で商業利用した場合に生じた損害などの責任は負いかねますので、ご了承ください。

そんなことはないと思いますが、万が一この展開図をバス事業者様のイベントや配布物などで用いられる場合は、念のためご一報頂けますと幸いです。

長野電鉄OSカーについて

※この記事の後半は、筆者こと走ルンですによる事実や資料を元にした考察で構成されています。予めご了承ください。

突然ですが、皆さんは長野電鉄の「OSカー」という電車についてご存知でしょうか?

「ああ、あの田舎の電車にしては珍しい本格的な通勤電車のことかー」とか、「ワンマン化できなくて廃車になったやつでしょー?」という認識の方が大勢いらっしゃることと思いますが、どうして生まれてきたか、またどうして廃車になったか、そこまで突き詰めて存じていらっしゃる方はそう多くはないと思います。

ここ最近、長野電鉄上田電鉄の貴重な写真を多数収録した本が発行された際に、10系OSカーについて間違った解説がなされているとの話が話題になりました。さらにTwitterを見ていると、0系OSカーの廃車理由として、当時の情勢的に間違っているであろう記述が多数散見されるのに気が付きました。そこでこの記事では、特に0系OSカーを製造から廃車までの経緯を掘り下げて書いてみようと思います。筆者こと走ルンですは無学故に文才0なので読みづらいと思いますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。

 

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須坂駅を発車するOSカーOS2編成:絵葉書「長野電鉄車輛集」より

 

  • 1:誕生の経緯および基本仕様
    • 1-1 0系
    • 1-2 10系
  • 2:その後の変遷
  • 3:OSカーにまつわるあれこれ
    • 3-1:OSカーのそっくりさん
    • 3-2:OSカー引退の真相

1:誕生の経緯および基本仕様

1-1 0系

そもそもなぜ、長野電鉄(以下、長電)のようなクソ田舎地方都市を走る電鉄が、大手私鉄顔負けの本格的な通勤型電車を欲したのでしょうか。それを紐解くには長野市中心部の地形をご覧いただくと納得できるでしょう。

 

 

地図はGoogle mapより、長野駅を中心とした長野駅中心部の様子を示しています。

長野市の中心部は西を裾花川を挟んだ旭山、北を善光寺の裏に広がる大峰山や地附山といった山に囲まれているため、住宅地などの開発は山裾を切り崩したわずかな範囲でしか行えず、大規模な造成が非常に困難です。加えて北西部を流れる裾花川沿いは「裾花峡」として有名な断崖絶壁の峡谷で、ここもわずかな平地を切り開いた集落が点在するのみで、大規模な造成は不可能です。そこで必然的に長野電鉄長野線(以下、長野線)や信越本線が走る東側や南側が開発されることになるのですが、このことが長野線の混雑を招くことになるのです。

当時の長電を走っていた電車は17m車体を持つ2ドアのロングシート車がほとんどで、これでは3連を組んでも朝ラッシュに殺到する大勢の旅客を捌き切れませんでした。唯一、信濃鐡道*1由来の買収国電を鋼体化した1100系は18m車体を持ちながら3連を組むロングシートの電車でしたが、在来車と同じ2ドアでは全く太刀打ちできませんでした。苦肉の策として特急車の2000系を走らせたのですが、朝ラッシュの混雑にロマンスカーを充当すれば、火に油を注ぐようなことなのは誰の目に見ても明らかです。以上の経緯から混雑緩和には本格的な通勤型電車が必要であるとの結論が見出され、OSカーが開発されることになりました。

先述のような状況から17mや18mの短い車体で朝ラッシュの混雑を捌き切れないのは明らかなので、車体は思い切って20mの4ドアとしました。定員は1両当たり135名で、1編成で17m車3連分に匹敵する容量になりました。前面は貫通型を採用したことで4連を組む事ができるため、その際は17m車6連分の旅客を一度に輸送する事ができます。これは長野~朝陽間が複線であるものの、それ以外は単線という限られた中で1列車当たりの輸送力を上げることに繋がりました*2

また朝ラッシュの輸送を円滑に行うには列車の速度向上も必要であると考えられたため、2000系で実績のある三菱電機製WNドライブが採用されました。加えて通勤型電車故に経済性が求められたことや、今後の保守費用の低減のため、1965年に近鉄南大阪線吉野線の「吉野特急」用に登場した16000系の実績を踏まえて、135kW主電動機を4個装備した1M1Tの編成とされました。当時は狭軌鉄道における大出力の主電動機を伴うWNドライブの技術が未成熟であったため、動力台車の車輪径が910㎜と大きなものになりました*3。このことから起動加速度は低速で1.9km/h/s、高速で2.3km/h/sと使い分けることが出来たとのことですが、実際は在来車のと関係から低速モードでの運転だったそうです。

制動装置はコストカットと軽量化のため、東武8000系同様にHSC形空制のみ採用したところ、勾配区間で制輪子の摩耗が激しくなってしまい、後に引退の一因となりました。

車内は均衡形と呼ばれる近鉄や相鉄で採用されていた窓配置*4のため、乗務員室の後ろまで座席が設置されたほか、乗降扉のすぐ横まで座席を寄せたことで、出来るだけ多くの旅客が着座できるよう工夫されました。吊革も座席前のみならず扉付近の線路方向にも設置されており、現在の通勤型電車では一般的なものを採用しています。ただし枕木方向の吊革は設置すると冬季のスキー客輸送の支障となることが見込まれたため、取り付けが見送られています。当時はまだスキー輸送の需要が旺盛であったことが窺えるエピソードですね。

以上のような機能的な事項よりも、0系OSカーを強く印象付けるものとして、「猛々しい」と形容されるFRPで出来た前頭部が挙げられます。これは斬新なデザインとリンゴ色の明るい塗装を以って快適に利用してもらおうという意図のもとで、製作にあたった日本車輛の要望で採用したものです。当時の長電は長野~善光寺下間が地上を走っていたことで現在よりも踏切の数が多く、万が一踏切事故で破損したときでも復旧を容易にするためという意図もあったのですが、兎にも角にも日本で初めて前面全体にFRPを採用した例として、とても画期的な構造でした。前面窓上部にまとめられた灯具類は、降雪時における視界の確保や、踏切事故発生時における破損の防止という観点から採用されました。また1100系登場時に各停と特急の誤乗が多々発生したことから、列車種別表示と行先表示も一つにまとめて前面貫通路上に設置されました。長電とは異なる理由であったとしても、このような灯具と表示器類の配置はFRP製の前面と併せて、現在さまざまな電車*5に採用されているものであり、長電は55年以上前から既に採用していたということは特筆すべきことでしょう。さらに運転台内部の仕切は、乗務員が万が一事故が起きて閉じ込められたときに備えて運転席側から助手席側へと脱出できる仕組みになっており、ここにも現代の一般的な通勤形電車に先立つ先進的な装備を見ることができます*6

この他にも当時の長電には、本形式を用いて信州中野駅における分割併合運転を行う計画があり、そのために柴田式密着連結器を採用したり、日本の通勤型電車では初めて電動式の行先表示器を側面に採用したりと、ここでも画期的な面が見られます*7。また側面窓は計画時では1段下降式が採用されることも考えられていたものの、コストカットの関係で2段上昇式が採用されました*8

形式の「0系」は、元々木造車で使用していたもの*9で、1100系への更新に伴い空いていたところを、本形式の導入によって新たに「20mの通勤形電車」に付番するよう形式称号規定を改めています。後にこの規定は2005年に8500系の導入に伴って改変され、20mの通勤形電車であっても18m車同様に4桁で区分されるようになりました。

*1:現在のJR大糸線電化区間

*2:後に入線する8500系もこのような考えの基で導入されたらしい

*3:付随台車の車輪径は一般的な860㎜である

*4:相鉄旧6000系と同一である

*5:代表例としてJR東日本E233系E531系以降の通勤・近郊形などが挙げられる

*6:勘違いする読者が出てくると思われるので念のため記すが、現代の通勤形電車のように乗務員室→客室へと脱出できるものではなく、あくまで乗務員室内限定の脱出口であることに注意されたい

*7:よく分割併合に関して特殊な装備があったものと誤解されるらしいが、文献等で確認できるのは以上の装備である

*8:本郷駅改築記念乗車券のイラストでは、このことを反映させたのか1段下降窓を持つ0系OSカーが描かれている

*9:昭和30年代の形式称号では、木造車を2桁以内の数字で区分するものとしていた

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試作品ペーパークラフト

だいぶ前に趣味でバスのペーパークラフトを作っては投稿していたことがあり、最近は当時のをリニューアルすることにハマりつつあります。

今回はそのうちの一部である、日野ブルーリボンHIMR:KC-RU1JMCHのアルピコ交通タイプを紹介したいと思います。

 

 

 

上が’99年までの車両、下が’00年式*1の車両です。展開図の作成にあたっては、他の車両と部品を共用したり大幅にデフォルメしたりしているため、現車と異なる部位が多々ありますことをご了承ください。

複雑な部品がないため簡単に組み立てられ、A4の紙に印刷すると大判のペーパークラフトとして楽しめるのが仕様です。

好評でしたら色を入れたものも作ってみようと思います。

この展開図の著作権は全て趣味で作った走ルンですに帰属します。無断での転載や商業目的での利用はお断りいたします。

また色を塗ったものを各バス事業者様に無許可で商業利用した場合に生じた損害などの責任は負いかねますので、ご了承ください。

そんなことはないと思いますが、万が一この展開図をバス事業者様のイベントや配布物などで用いられる場合は、念のためご一報頂けますと幸いです。

*1:バスコレで製品化された車両である

東武の支線に乗ったおはなし

昨日は東武博物館の保存車を記事にしたのですが、そこに行くまでに亀戸線に乗り、そこからの帰りに大師線に乗ってきたので、その様子をご紹介したいと思います。

 

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いつもは通過してしまう亀戸駅ですが、東武線乗り換え改札からホームへ行くと、このような味のある光景が広がっていました。

よく見るとこのホームに臨した線路は微妙な下り勾配になっているらしく、例のガチャマン衝突事件は本当だったのかな…と思ってしまいました()


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やってきたのは8000系8500型の8565Fです。

ワンマン化改造を受けているため、前面下の隅にホーム検知器が付いているのが特徴です。

やはり8000系修繕車はこの色が一番似合いますね。


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この編成のクハ8665号車の通し番号は1234だったということを初めて知りました((


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亀戸線は複線でありながらもスローペースで走るのですが、駅数が少ないことから亀戸駅から曳舟駅まであっという間の乗車体験でした。

そのため野田線の8000系に乗り慣れていると、少し物足りなく感じます(笑)

 

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続いて東武博物館最寄駅の東向島駅から大師線に乗るべく西新井駅へ向かうと、ホームまでの階段には78系に塗られた緑色の試験塗装を纏う8000系8500型の8568Fを「草だんご」とゴリ押し紹介する掲示物がたくさんありました(笑)

亀戸線ではミドリガメと呼ばれているのが、ここでは草だんごに変わるのが面白いですね。

 

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ホームに降りて待っていたのは、ミドリガメや草だんごこと8568Fではなく、黄色の試験塗装を模した8575Fでした。

大師線は元々西板線計画の一部として、西新井駅から下板橋駅までを結ぶ路線になるはずだったことを意識して乗ると、とても夢の跡といった感じがして面白かったです。

また終点の大師前駅は1面2線に出来そうな意味深な構造だったのも興味深かったです。


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大師前駅はノーラッチですが、一応改札の船自体はありまして、そこにも同線で活躍する8000系をゴリ押し紹介するポスターなどがありました。

他にも駅構内の至る所に同様の掲示物があって、都会の盲腸線を盛り上げようとする意気込みを感じました(笑)

機会があればまたの機会も乗ってみたいものです。

東武博物館の保存車

先日は久々に東武博物館へ行ってきました。

東武博物館は「交通と文化の東武博物館」をキャッチコピーとし、1989年に東武鉄道創立90周年を記念して東向島駅の高架下に建てられた博物館です。開館前は葛生や東武動物公園、更には業平橋などのヤード跡地に設立したうえで、本線と接続することで車両の展示入替を柔軟にする計画があったものの、都心側に近くちょうどよい場所ということで現在地に落ち着いたのだそうです。

 

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入ってすぐのエントランスには、B1形蒸気機関車の5号機が展示されています。

東武鉄道創業時に用いられた機関車のうちの1両で、イギリス・ベイヤーピーコック社製のものです。

保存にあたり登場時の姿に戻されたのと、動態保存の計画があったらしいことから、とても美しい状態です。また車輪を動かしたり汽笛を鳴らしたりできるので、近付くと油の匂いがします。

 

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その隣にはデハ1形デハ5号が保存されています。

こちらも東武最初の電車ということで保存されており、一部は運輸省より63系割当の見返りとして新潟交通などへ供出されたり、客車化されて熊谷線や矢板線などで使用されたりしていました。

このデハ5号は西新井工場の入換動車として用いられていたものを、登場時の姿に復元したものです。

 

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小学校に面した中庭にも2両が保存されています。

こちらはED100形ED101号で、東武最初の電気機関車として保存されています。

本来であれば開館当初から保存する計画があったものの、当時所有していた近江鉄道が保存を見込んでいたことから返還を拒否したらしく、2009年のリニューアルまで保存は見送られてしまいました。


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その隣には5700系モハ5701号が保存されています。

5700系は東武が戦後に生み出した特急車両で、A編成とB編成と呼ばれるグループは片方の先頭車が湘南顔に近い2枚窓の前面デザインを採用したことで、「ねこヒゲ」のあだ名がありました。

のちに貫通型前面へ改造されてからも優等運用に使われたものの、平成3年ごろに引退しました。この5701Fだけは廃車後も保管されていたのですが、保存場所の関係でモハ5701号を残して解体されてしまいました…。


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その傍らにはモハ5701号の復元に用いた前頭部の金型もあります。

 

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なお館内にはアルナ工機で保存されていた5700系モハ5703号の前頭部も保存されています。こちらの胴体および相方のクハ703号は、埼玉県内のレストラン「マスタード・シード」にて保存されています。

 

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こちらはED5010形ED5015号です。

ED101号が保存できなかった代替として、ED5000形以降に造られた東武電気機関車の代表として保存されております。現在は横に資材置き場があるため、全体を綺麗に見ることが難しくなってしまいました。


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その横には明智平ロープウェイの搬器と日産ディーゼル製キャブオーバーバスも展示されています。

 

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台車は3台が保存されており、3000系で用いたものと8000系8101Fのもの、鬼怒川線の前身である下野電気鉄道→銚子電気鉄道で用いていたものがあります。


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無蓋貨車トキ1形を短縮したものも保存されています。


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屋外の公道に面した側には1720型モハ1721号のカットモデルが保存されています。

場所の関係からこのような状態になってしまったのだそうで…。


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台車は200型へ流用されたため、元々履いていた2000系のものが取り付けられています。


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館内からの入口にはライトユニットの展示もあります。


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車内はこのような感じです。

実際に座ってみると、広々としたシートピッチが快適でいいですね。


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その隣にいる日光軌道線用の連節車・200形です。

100形をそのまま連節車にしたような見た目が特徴です。


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こちらも館内から車内に入ることができます。

クラシカルな感じがいいですね。


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最後に博物館から少し歩いた水戸街道沿いに置かれているB1形蒸気機関車の6号機です。

こちらも5号機関車同様のベイヤーピーコック社製で、廃車時の姿で保存されています。

 

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この他、館内には路線バスのシミュレータの筐体として、日野RE120のカットモデルが置いてあります。

前頭部をかなり複雑にカットしてあるらしく、近付いて見ると前面方向幕が下半分だけ残されていました。

 

以上、東武博物館の保存社の紹介でした。

千葉内陸バス1214号車

先日千葉駅前にて、トミーテックがデザインを監修したことで有名な、千葉内陸バスの1214号車を初めて拝見しました。

 

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千葉内陸バスの車体色は以前より白地に緑帯というもので、これがかつてTOMIXより発売されていた「富士重工路線バス*1」の塗装に似ているとのことで、本車の導入にあたり両社のコラボに至ったのだそうです。

この角度からだと分かりにくくて恐縮ですが、真横から見ると分かる人には懐かしい、あの塗装が実物で再現されていて、ちょっとしたこだわりを感じます。


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当然ながら前面や側面にはTOMYTECやTOMIXのロゴが入っています。

この企画により、登場間もない頃に本車のバスコレも販売されたことは記憶に新しいですね。当然ながら私も一つ買ったので、手元のコレクション箱の中に、他の京成グループの車両共々収まっております(笑)

*1:当時最新鋭の7Eボディの路線車を模したもの

KATO 東京地下鉄02系80番代 02-181F

巷では中古屋などで塚と化している(らしい)KATOの地下鉄シリーズ。特に銀座線と丸ノ内線は遊べる範囲も狭まることから、たまーに並んでいるのを見かけます。

しかし私のような第三軌条集電の地下鉄が好きな者にとっては、手頃な値段で買えるチャンスとあって、見つけ次第お財布と相談しては買って帰って悦に浸っております。

それを続けているうちに、いつのまにか銀座線が10本、丸ノ内線が11本にまで増えてしまいました(笑)

今回はそんな中から、最近増やした丸ノ内線02系の方南町分岐線用の80番代車を紹介いたします。

02系80番代は丸ノ内線方南町分岐線用に投入されたもので、3両編成に本線用とは異なる帯が特徴です。

 

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模型は適当に拾った02系をベースに、幕板の帯を消してからCrossPointの帯ステッカーを貼っただけのお手軽改造です。

ドアや優先席のステッカーは銀河モデルのものです。

台車の集電シュー周りは色差しをしてあります。

 

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手元には既にB修繕車(元非冷暖房車)や、ボルスタレス台車を履いた20F以降のグループ、そして50周年記念ラッピング車もあります。

前面の連結器は私の好みでassyパーツを用いて電連付のものにしています。銀座線や丸ノ内線のトムリンソン式連結器は下に電連が付いていないと、開きっぱなしの扉のような違和感を感じてしまいます…。

現車は徐々に数を減らしつつありますが、模型の世界ではいつまでも走らせたいものですね。