※この記事の後半は、筆者こと走ルンですによる事実や資料を元にした考察で構成されています。予めご了承ください。
突然ですが、皆さんは長野電鉄の「OSカー」という電車についてご存知でしょうか?
「ああ、あの田舎の電車にしては珍しい本格的な通勤電車のことかー」とか、「ワンマン化できなくて廃車になったやつでしょー?」という認識の方が大勢いらっしゃることと思いますが、どうして生まれてきたか、またどうして廃車になったか、そこまで突き詰めて存じていらっしゃる方はそう多くはないと思います。
ここ最近、長野電鉄や上田電鉄の貴重な写真を多数収録した本が発行された際に、10系OSカーについて間違った解説がなされているとの話が話題になりました。さらにTwitterを見ていると、0系OSカーの廃車理由として、当時の情勢的に間違っているであろう記述が多数散見されるのに気が付きました。そこでこの記事では、特に0系OSカーを製造から廃車までの経緯を掘り下げて書いてみようと思います。筆者こと走ルンですは無学故に文才0なので読みづらいと思いますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
須坂駅を発車するOSカーOS2編成:絵葉書「長野電鉄車輛集」より
- 1:誕生の経緯および基本仕様
- 2:その後の変遷
- 3:OSカーにまつわるあれこれ
- 3-1:OSカーのそっくりさん
- 3-2:OSカー引退の真相
1:誕生の経緯および基本仕様
1-1 0系
そもそもなぜ、長野電鉄(以下、長電)のようなクソ田舎地方都市を走る電鉄が、大手私鉄顔負けの本格的な通勤型電車を欲したのでしょうか。それを紐解くには長野市中心部の地形をご覧いただくと納得できるでしょう。
地図はGoogle mapより、長野駅を中心とした長野駅中心部の様子を示しています。
長野市の中心部は西を裾花川を挟んだ旭山、北を善光寺の裏に広がる大峰山や地附山といった山に囲まれているため、住宅地などの開発は山裾を切り崩したわずかな範囲でしか行えず、大規模な造成が非常に困難です。加えて北西部を流れる裾花川沿いは「裾花峡」として有名な断崖絶壁の峡谷で、ここもわずかな平地を切り開いた集落が点在するのみで、大規模な造成は不可能です。そこで必然的に長野電鉄長野線(以下、長野線)や信越本線が走る東側や南側が開発されることになるのですが、このことが長野線の混雑を招くことになるのです。
当時の長電を走っていた電車は17m車体を持つ2ドアのロングシート車がほとんどで、これでは3連を組んでも朝ラッシュに殺到する大勢の旅客を捌き切れませんでした。唯一、信濃鐡道*1由来の買収国電を鋼体化した1100系は18m車体を持ちながら3連を組むロングシートの電車でしたが、在来車と同じ2ドアでは全く太刀打ちできませんでした。苦肉の策として特急車の2000系を走らせたのですが、朝ラッシュの混雑にロマンスカーを充当すれば、火に油を注ぐようなことなのは誰の目に見ても明らかです。以上の経緯から混雑緩和には本格的な通勤型電車が必要であるとの結論が見出され、OSカーが開発されることになりました。
先述のような状況から17mや18mの短い車体で朝ラッシュの混雑を捌き切れないのは明らかなので、車体は思い切って20mの4ドアとしました。定員は1両当たり135名で、1編成で17m車3連分に匹敵する容量になりました。前面は貫通型を採用したことで4連を組む事ができるため、その際は17m車6連分の旅客を一度に輸送する事ができます。これは長野~朝陽間が複線であるものの、それ以外は単線という限られた中で1列車当たりの輸送力を上げることに繋がりました*2。
また朝ラッシュの輸送を円滑に行うには列車の速度向上も必要であると考えられたため、2000系で実績のある三菱電機製WNドライブが採用されました。加えて通勤型電車故に経済性が求められたことや、今後の保守費用の低減のため、1965年に近鉄南大阪線・吉野線の「吉野特急」用に登場した16000系の実績を踏まえて、135kW主電動機を4個装備した1M1Tの編成とされました。当時は狭軌鉄道における大出力の主電動機を伴うWNドライブの技術が未成熟であったため、動力台車の車輪径が910㎜と大きなものになりました*3。このことから起動加速度は低速で1.9km/h/s、高速で2.3km/h/sと使い分けることが出来たとのことですが、実際は在来車のと関係から低速モードでの運転だったそうです。
制動装置はコストカットと軽量化のため、東武8000系同様にHSC形空制のみ採用したところ、勾配区間で制輪子の摩耗が激しくなってしまい、後に引退の一因となりました。
車内は均衡形と呼ばれる近鉄や相鉄で採用されていた窓配置*4のため、乗務員室の後ろまで座席が設置されたほか、乗降扉のすぐ横まで座席を寄せたことで、出来るだけ多くの旅客が着座できるよう工夫されました。吊革も座席前のみならず扉付近の線路方向にも設置されており、現在の通勤型電車では一般的なものを採用しています。ただし枕木方向の吊革は設置すると冬季のスキー客輸送の支障となることが見込まれたため、取り付けが見送られています。当時はまだスキー輸送の需要が旺盛であったことが窺えるエピソードですね。
以上のような機能的な事項よりも、0系OSカーを強く印象付けるものとして、「猛々しい」と形容されるFRPで出来た前頭部が挙げられます。これは斬新なデザインとリンゴ色の明るい塗装を以って快適に利用してもらおうという意図のもとで、製作にあたった日本車輛の要望で採用したものです。当時の長電は長野~善光寺下間が地上を走っていたことで現在よりも踏切の数が多く、万が一踏切事故で破損したときでも復旧を容易にするためという意図もあったのですが、兎にも角にも日本で初めて前面全体にFRPを採用した例として、とても画期的な構造でした。前面窓上部にまとめられた灯具類は、降雪時における視界の確保や、踏切事故発生時における破損の防止という観点から採用されました。また1100系登場時に各停と特急の誤乗が多々発生したことから、列車種別表示と行先表示も一つにまとめて前面貫通路上に設置されました。長電とは異なる理由であったとしても、このような灯具と表示器類の配置はFRP製の前面と併せて、現在さまざまな電車*5に採用されているものであり、長電は55年以上前から既に採用していたということは特筆すべきことでしょう。さらに運転台内部の仕切は、乗務員が万が一事故が起きて閉じ込められたときに備えて運転席側から助手席側へと脱出できる仕組みになっており、ここにも現代の一般的な通勤形電車に先立つ先進的な装備を見ることができます*6。
この他にも当時の長電には、本形式を用いて信州中野駅における分割併合運転を行う計画があり、そのために柴田式密着連結器を採用したり、日本の通勤型電車では初めて電動式の行先表示器を側面に採用したりと、ここでも画期的な面が見られます*7。また側面窓は計画時では1段下降式が採用されることも考えられていたものの、コストカットの関係で2段上昇式が採用されました*8。
形式の「0系」は、元々木造車で使用していたもの*9で、1100系への更新に伴い空いていたところを、本形式の導入によって新たに「20mの通勤形電車」に付番するよう形式称号規定を改めています。後にこの規定は2005年に8500系の導入に伴って改変され、20mの通勤形電車であっても18m車同様に4桁で区分されるようになりました。
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