前回を以って第1部を読み終えた善光寺白馬電鉄小史ですが、今回から第2部を読み進めていきたいと思います。
第2部は戦後史のタイトルが付けられていて、休止になってから復活を断念するまでの経緯と、現在に至るまでの事業である運輸業の発展についてがまとめられています。
第3編は戦後の事業復興というタイトルが付けられており、またこれから読んでいく第1章には休止路線の復活計画と事業再建のあしどりというタイトルが付けられています。つまりは善光寺白馬電鉄が鉄道として復活していく計画の過程と、休止していた運送業を復活していくことについてのお話です。
それでは第1項をご覧ください。
誤字・表記等は全て原文ママとなります。
1-1. 終戦と路線復活計画
昭和20年8月13日に長野空襲*1があってから2日後の8月15日、日華事変以来8年に及んだ大戦は我国の敗戦をもって終了した。
終戦により戦時下の軍部による政治からGHQ(連合国総司令部)の指導による政治に移行し、長野には昭和21年からGHQの軍政による第78中隊が設置された。
主としてアメリカの占領政策は、財閥解体、農地改革、労働者の地位向上を3本柱とする、いわば日本経済の縮小化であり、こうして新政策を背景にして多くの特別機関の閉鎖が実施され、善白の場合、休止時に受理した復活目的の保償金についても復興金融金庫と呼ばれる政府金融機関に保管されていたが戦争協力金の認定を受けてその大半がGHQに回収されてしまった。
このような背景のもとで、善白を含めた交通運輸業界は、戦後の復興と民生安定のにない手として、再建の第一歩を踏出した訳で、政府も戦後復興対策として終戦より運輸省に於いて「鉄道復興5ヵ年計画」が開始され被災した施設の復興が図られた。
昭和24年善白も政府に対して休止線の復活を申請しているが、戦後の混乱期で戦災の復旧にその全てがそそがれていた時だけに不要不急線として企業整備を受けた休止線が復活されることはあり得なかった。
この結果、当初は熱心に立案された長野から白馬までの鉄道建設ではあったが、その計画と続行は以後余り進展をみなかった。
昭和10年に大糸南線が中土まで開通し松本経由で信濃四ツ谷(白馬)まで鉄道が通じていた事もあるが、最大の理由は資金調達の困難と収益性の低さであり、不要不急線として休止された事からも明白のように当初から欠損を続けて補助金を借入金の利子に回していた経営状態であり、投下資本は配当も換金性もないボロ株であった為、株主になっていた投資家はあえて、利益の無い赤字路線を復活させる事に無関心になるのは当然の考えであり、一方では株式の放出も余儀なくされた。
更に戦後は軍事的見地からの国有化などの政策がなくなった為に、鉄道のシェアが低下し、こうした休止線を持つ会社のほとんどは資金調達の面からも復活の目途がつかない為、昭和21年に戦時補助が打ち切られたのを機して成田鉄道*2など廃止許可を取って会社を解散した。
又、琴平急行電鉄の場合、並行路線の琴平参宮電鉄に合併し、会社の再建と復興を計った事は当然の成り行きだった。
企業整備を受けた会社で北海道の大沼電鉄は独自で昭和23年に復活したものの営業不振で27年には廃止されている。
これは戦後ローカル私鉄の地位の失墜を意味し、この事は我国のみならず各国に共通し、イギリスでは労働党が政権につくと昭和22年の運輸法で鉄道国有化を打ち出し、主要鉄道を中心に*3昭和23年1月1日付けで公有移管された*4。
こうした当時の経済情勢下では、事業資金融通の目途は皆目つかず、善光寺白馬電鉄の再建は暗礁に乗上げてしまった。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
善光寺白馬電鉄は終戦後、休止した際にもらえることになっていた補償金がGHQによって没収されてしまうという、前途多難なスタートを切りました。それに加えて元々人口が希薄なところを通ることを見込んでいた路線故に収益の問題から投資家などが引き上げてしまい、路線の復活どころではなくなってしまいました。
またこの頃から我国においても交通機関における鉄道のシェアが少しずつ傾きつつあり、戦時中に休止になった地方私鉄が復活を断念したり、復活したとしてもすぐに廃止になったりと、厳しい時代を迎えていました。本書ではイギリス国鉄の国有化について触れていますが、同国では国有化に伴い不採算路線が増えてしまったことから、所謂「ビーチングの斧」などの合理化政策などを通じて、不採算路線の廃止と整理を推し進めていきました。これに伴い保存鉄道が各地で誕生し、ボランティアによる廃線跡を活かした旧型車両の動態保存が活発になっていきます。
蛇足ですが、きかんしゃトーマスの原作にあたる「汽車の絵本」では、この辺りの経緯がストーリーに反映されているため、機会があればイギリスの鉄道史のわかりやすい入門書としてご覧いただければと思います。
続いて第2章は再建整備と運輸業への進出というタイトルで、子会社の長野運送が設立される過程が紹介されています。
それでは第1項をご覧ください。
誤字・表記等は全て原文ママとなります。
1-1. 運送事業の発端と長野運送
昭和18年に設立された子会社の善白運送は昭和22年に「長野運送」と称号を変更したが、親会社の善光寺白馬電鉄同様休業状態であり引続を日本通運の下請けに寄る日々が続いた。
しかし、鉄道事業の再建見通しが立たない為、とりあえず鉄道線の復活は見送って運送業による事業復活を行なう事とし社有地の売却等によりこれに備えた。
貨物自動車業のメリットとして①運送費・荷造費など輸送費用が低廉、②戸口輸送(コンテナ輸送)が可能で輸送時間が短かく融通性がある、③貨物の安全度が高い、と云った3点があげられる。
終戦時に於いて政府は日通を中心とする従来の小運送制度と一駅一店の免許制度を維持する事を計ったが、GHQの指示で、小運送の複数制実施による小運送二法の廃止と通運事業法の制定など業界の体制を大きく変更する措置を実施する事になった。
日通の運営が「独占禁止法」「過度経済力集中排除法」の指定をGHQより受けた為、昭和23年1月に「小運送業複数制度要網」が発表された。
この間、長野運送は昭和24年3月に小運送業法に基づく、長野保線区線に連絡する鉃道営業時に使用していた専用側線による白土・薪炭・亜炭・木材の限定免許をかく得した。
昭和25年2月1日に「小運送業法」「日本通運株式会社法」の小運送2法が廃止され、代りに「通運事業法」が昭和24年10月7日に公布されていたものを25年2月1日から施行されるようになった。
これに基づいて長野運送も25年4月に通運免許をかく得し、通運事業を開始、あくまでも将来の鉄道復活を予定しつつ運送業を主体とした経営体制に移行した事は云うまでもない。
引用:善光寺白馬電鉄小史 沖野幸一(1980)
ここに来て、あの水木一郎が歌うテーマソングでお馴染みの長野運送の名前が登場します。
長野運送は元々善白運輸という善光寺白馬電鉄の子会社であり、それが昭和18年に称号変更したことによって誕生したとのことです。設立当初は日通の下請けとして活動していたものが、鉄道復活の見込みが立たないことから運輸業をメインにすることにしたため、GHQによる規制緩和の影響で昭和25年から本格的な運送業に参画し、現在に至ります。
その後の顛末に関しては次回以降の記事をご覧いただけたらと思います。
次の記事
前の記事